文法とは何かを考えない日本の教育 国語・英語に共通する品詞分解教育 | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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まず、東島紘さんという方が書いた文章から引用させてもらいます。

29歳に渡米して以来47年間米国で働きながら英語を独習し続けているそうです。

『日本人は英文法ばかり勉強しているのに、なぜ日本人の書いた英文は文法的に正しくないものが多いのでしょうか?

日本人の多くが英文法を勉強したことがないからです。

何故そうなのかと言えば、日本ではほとんどの英語の先生が学校で英文法を教えないからです。』

 

『明治維新以来150年間にわたり、日本の英語教育では「英語での論理 (ロジック) の組み立て方」を教えてきていない。それが「日本人の書いた英文は、文法的に正しくないものが多い」ことの根本原因である。』

 

『日本の英語教育における文法では、国語教育における文法と同じように、基本的には品詞分解法を教えている。主語か述語かとか副詞か形容詞かとか、文章を品詞に分解させる方法ばかり教え・・・』

 

米国で非英語圏外国人のための英語課程では

『「二つ以上の意味に解釈できる文章を話さないよう、書かないようにするための規則。誰にでもわかりやすい文章を話せるよう、書けるようになるための規則」という考え方で文法を教えていました。』

 

『日本語と大きく異なる「英語での論理の組み立て方」を教えないからです。なぜ教えないのかと言えば、中学校・高校の英語の先生たちがそれを大学で教わってきていないからで・・・英語の指導要領の中に「日本語と大きく異なる、英語での論理の組み立て方を教えること」と一度も書いたことがないからです。』

Net上にある文なのですがURLが特定できない文なので引用が長くなりました。

 

実は、わたしが高校生だったころは

今のように選択科目はなく

高校英語の科目は「Reader」と「grammer」の2科目でした。

そこでわたしはとんでもなく「grammer(文法)」が不得意でした。

 

なぜ、文法学習があるかという理由が理解できなかったからです。

文法とは「規則」だと聞いていたので

教科書はそれを説明するものであると思っていたら

規則と言うよりも単なる「用例」の説明集でした。

しかも、解説がほとんどなく教員が例文を説明するような編集でした。

結局、受験予備校で斎藤秀三郎の弟子(年齢的には孫弟子か?)の話を聞くまでは文法に対する理解は進みませんでした。

(文法学が無意味というわけではないので、悪しからず)

 

英語に限らず

古文でもなぜ文法学習があるかという理由がわかりませんでした。

子どものころから身のまわりに古文・漢文の本文があったので

体感的に文章の流れを理解することで本文を読んでいましたから

活用を覚えたり品詞分解する理由が分かりませんでした。

 

言ってみれば

当時すでに「死語?」であった古文・漢文を「規範文法」ではなく「記述文法」寄りの方法で読んできたとも言えます。

 

規範文法、記述文法については以前に説明

不得意なオトナのための英語キソ16 最悪の外国語の学び方 競争試験での評価

 

さすがに

平安時代の源氏物語や女流日記のような

私的な(仲間内でしかわからない)文章

これらは言ってみれば「クロスワードパズル」を読むようなもので

ヒントなしでは読めないものです。

(漢文(漢語文)は公用語でしたから言葉の知識は別としてもそのようなことでは大変困るものでした)

 

正直、国語科の教員免許をもっている身であっても

先天的な不思議な能力(バイロンのような)をもたないものであれば

原文をそのまま読むことは無理と断言できます。

その解読手段としては品詞分解を否定しません。

 

※英国の詩人バイロンは試験の口頭試問で試験官が生意気な彼を懲らしめるためにわざとギリシア語新約聖書の使徒行伝中の航海専門用語が並んでいて最も難解とされる部分を英訳するように指示したら初見で読んでしまったという伝説があります。

 

米国での文法学習の目的は「誰にでもわかりやすい文章を話せるよう、書けるようになるための規則」

つまり

自分の意志を伝えるための方法を身につけることであることがわかります。

ところが

日本の現実からはそもそも自分の「意思」を伝えることが学校教育の目的ではないことが読み取れます。

 

わたしは外国人と雑居していない日本でspeakingを必修とすることには無理があると考えていますが

それでも

言語学習の根本は「意思」を伝えることだと考えています。

それをより正確に伝えることが「文法」を学ぶ理由です。

 

その点では

いくら国(文部科学省)が英語学習の高度化を訴え

外国人(英語話者)とのコミュニケーションを勧めたところで

根本を考え直さないかぎり

かえって

学習者を混乱させたり苦しめるものとなるのではないでしょうか。