情報モラル教育は校則づくめの生活指導を変えるか? | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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1人1台端末の時代に入ったが学校では必ずしも活用が進んでいない。

多くの学校は、携帯電話やSNSが絡むトラブルに端を発した“べからず集”的なルールを作り

「危ないもの」として子供たちから遠ざけてきた。

 

現代社会がデジタル機器やネットを抜きにして成り立たないことを前提に

問題が起こったときのためにその解決方法を考える力を養うという考え方

それを「デジタルシティズンシップ教育」と呼ぶそうです。

 

学校にかかわるデジタル機器やNET上のトラブルへの対策は

現在はこれまでの生徒指導の形で取り扱われています。

それをデジタルシティズンシップ教育」の立場からすると「情報モラル」を生徒指導と切り離せと言うのです。

 

じゃあどう考えるかというと

「授業中にトラブルが起こるのは、日常的に使っているなら当然のこと。

トラブルから情報の科学的な理解や、指示待ちではない自分で考える力を養うことができる。

失敗は学びのチャンスでもある」とのこと。

 

わたしはトラブルを「起こさない」教育ではなくトラブルが前提である教育には賛成なのですが

これまでの生活指導の考え方でこれを扱うのにはいくつかの疑問を感じます。

 

まず、生徒指導全体を罰則・強制で行う発想がすでに時代遅れだと考えます。

生徒が落ち着いている高校では以前から「生徒指導・生活指導」ではなく「生徒相談」という発想に切り替えているところがあります。

言いたいことは分かるが

まず、学校の状況によりケース分けの上で議論が必要だということです。

 

その次です。

「シテイズンシップ教育」、つまり「市民教育」という権利教育・社会教育の上に情報モラルを成り立たせようとする考えとわたしは捉えます。

 

よく誤解というよりも、そう信じている人が多いのですが

学校は社会正義を教えるところではありません。

子ども大人にかかわらず社会正義にそって生活するのは当然のことです。

 

元々強制や規則漬けが生まれたのはたいてい組織の自己防衛のためです。

ところが、どこでも社会正義のために規則があると勘違いする人がいます。

たとえば「いじめ撲滅」といった考え方です。

(いじめを放置しろというわけではありません、誤解なく)

 

その正義論を表に出されるとトラブルは社会ではあって当然のことではなくない方が望ましいこととなります。

さらに、そこに自己防衛という隠れた本能のようなものが加わります。

そこでは間違う・試行錯誤の余地はありません。

 

それに「シテイズンシップ教育」では人は「善意」や「理性」で行動するという大前提があります。

そこでは「誤り?」の理由は「誤解・無知・過失」であって「悪意」であってはなりません。

 

でも

特に小学校で起きている情報機器・ネットにかかわる事件の多くは明らかに「悪意」なのです。

報道される内容をみるかぎりではどうみても「悪意」からとしか思えません。(度が過ぎている)

そもそも子どもというものは「純真?」なゆえに「残酷」なのです。

子どもは平気で虫の羽をむしることができます。

それは人に対して同じことです。

 

学校や教員が最も対策しにくいものは「悪意」です。

建前として「悪意」を認めることがむずかしい学校では

「悪意」という判断以前に強制・規則漬けで「悪意」を抑える。

それがこれまでの学校教育が得た結論なのです。

 

ではどうするか

まず、学校・教員がはっきりとトラブルが起きることを当然とすることです。

その上で「誤解・無知・過失」と「悪意」を分別して

組織として「悪意」を判断をすることができるようになるしかありません。

「悪意」に対しては「処分(行政処分、処罰ではない)」「隔離」といった実力行使が必要です。

 

言うところの「敵対矛盾」と「内部矛盾」といったような捉え方で

対応を変えなければなりません。