仕事に合理性を求めずがんばりを要求するのはその人を奴隷扱いすること | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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確かに

働いている人へのはげましは必要です。

しかし

働いている人の負担をどうやって軽くするかを考え

その人の負担を減らすために出来ることをしなければ

そのうちに倒れてしまいます。

いつまで同じことを繰り返すのでしょうか。

 

大切なのは今だけではなく普段からがんばりに頼らないしくみを考えることです。

一番厳しい時でも働いている人に必要な休みをとってもらうしくみを作るための条件をどう考えていけばいいのでしょうか?

 

まず

犠牲を強いる「がんばり」がどんなところから

「主義」になってしまっているか考えてみましょう。

 

「がんばり」の元になっているのが

結果よりも努力を評価するという考え方です。

一見「努力」を評価することはよさそうに思えますが

努力を評価するのは大変むずかしいことです。

成果で測れない努力は「質」ではなく「量」で評価するしかないからです。

そうすると

雇う側も雇われる側も

「やっているふり」を強制する

「やっているふり」をみせることで

自分を守ることをやり始めます。

 

「努力主義」の反対側にあるのが「成果主義」です。

ところが

成果主義の意味が全く日本では理解されていません。

それは

成果を評価することの意味がわかっていなくて

評価する能力が無いからです。

 

まず

成果を評価するためには、まず成果とは何を指すか細かく決めることが必要です。

実際

カルロス・ゴーン騒動で知ったのですが

あれぐらいの立場の人になると

成果を評価するための報酬契約書は2~300ページに及ぶそうです。

(その点ニッサンの契約書はかなりずさんで

ゴーンにお手盛りの報酬を許す内容だったそうです)

(ですから、必ず両方に交渉代理人、たいていは弁護士、が必要になります)

 

先に仕事の目標を決めて

その目標を実現するための項目を一つ一つ挙げていきます。

それを雇う側と雇われる側で決めていくのです。

(どちらかが一方的に決めるわけではありません)

 

だいたい

評価項目の70%ぐらいを達成すると年俸維持、上回ればボーナス

割ったり越えたりすれば年俸が上がり下がりします。

ですから

目標項目が達成できたかどうかは議論が必要になります。

どちら側も目標設定・評価能力があってはじめて成果主義は成り立つのです。

(すべてが理想的におこなわれるわけではありませんが)

日本のように互いによろしくやってくれでは契約は成り立たないのです。

 

ただし

これは幹部(年俸でもらう人)のためのもので

日給(時間給)で働く人は一方的に条件を示されることになりますが

その代わり求められる以上の仕事をする必要もありません。

これが使われる側の成果主義が意味することです。

(実際の給料の払い方はいろいろですが

世界の習慣では大きく分けると年俸と日給という雇い方になります。)

 

だから

日給で雇われた人は不満があればよその職場に移ります。

(ここではよその職場に移れるかどうかが労働者の能力なのです。

そのためには働く側も自分の能力を上げる必要があるのです)

 

わたしは頑張りを否定するものではなりません。

しかし

本当の契約関係では

「頑張る」は強制・回りの空気ではなく

本人の意志、使命感から生まれるものになります。

 

だから

それはもう仕事ではないのです。

がんばりを仕事に求めてはいけないのです。

仕事に合理性を求めず

がんばりを要求するのはその人を奴隷扱いにすることと同じなのです。

 

「寛大な主人の奴隷であること、これほど楽な生き方はない。

自分で考える必要も無く、命令にしたがっていれば、自分の生活がなりたつ」

人は弱い生き物です。

生活さえ成り立っていれば不満さえ感じることをやめれば

こんな楽な生き方はありません。

 

成果を求めるためには

事実と過程を検証し評価するしくみを当たり前にすること。

それを社会で取り組むことが必要です。

特に

それを定着させることを一番強く求められるのは教育分野です。

それを怠ったっていた結果が

今起こっている教員が避けられる職業になりつつあることではないでしょうか。