わたしが目標にしているのは「分かりやすさ」ではなく「読みやすさ」です | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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何事にしても「分かりやすい」が求められているここ最近の流れです。

でも

何事もすべてが分かりやすいわけではありません。

 

逆に

分かりやすさを求めるあまり

 

かえって

説明が本質とズレてしまい

間違った理解がされてしまうこともあります。

 

口で言うのは簡単なことですが

「分かる」ということは大変ややっこしいことで

同じ言葉がその人によっては

同じことを指さないことがよくあります。

「分かる」ということはいつでもたやすいことではありません。

 

特に、もともと

理解が難しい

事前に知識がいるようなことを

簡単に説明することはできません。

分かるということはその人に任せるしかない部分があるのです。

 

たいてい

「分かる〇〇」や「分かりやすい〇〇」という本(文)が分かりやすいのは珍しいことです。

そこでわたしが目標にしているのは

「読みやすい」ということです。

 

だから

わたしがいつも注意していることは

漢語や専門用語はできるだけ使わない。

使うときは

他の言葉が使えないとき

大きくイメージが変わってしまうときなど

どうしてもその言葉が必要かを考えます。

 

「シソーラス」というものがあります。

同義語や関係している項目でまとめている辞書のことです。

言葉が難しいと思ったら

シソーラスで引いてみて言い直しができないか考えます。

 

最近の若い子たちが普段の会話で何の気なしに口癖のように漢語を使っていることが気になっています。

漢語をつかうのは悪いことではないと思います。

ただ

多くの漢語が「概念語」であることに問題があるのです。

たとえば

「便利」という言葉はすでに漢語のイメージはないと思いますが

「利便性」という言葉ならどうでしょうか?

最近のインタビューで若い子たちが口をそろえるようにつかっているのが気になります。

 

本当にそれで受け手にイメージがわくのでしょうか?

相手に伝わっているのでしょうか?