虐待・体罰と支配の関係 悪意がなければ許されるのか | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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虐待・体罰でよく言い訳につかわれるのが

 

「虐待のつもりはない」

「しつけ・教育だ。いきすぎただけだ」という言葉です。

 

わたしにとって加害者がこのように言えることが大変「気持ちが悪い」ことです。

(「腹が立つ」のではなく「気持ち悪い」のです)

 

虐待・体罰と支配とが深い関係にあるからです。

意識的・無意識にかかわらず

たいていの場合それは相手に対する支配の道具(方法)としてつかわれていることが多いからです。

「悪意」がなかったという言い方にそのことがはっきり示されています。

自分が支配すべきものに対しての「善意」「悪意」はその人が決めることですから。

 

結果はどうでも

自分には「悪意」はなかった。

「悪意」がなければ「犯罪」ではないという考えです。

裁判での弁護の仕方でも

「悪意」はなかったが「結果」がよくなかったという言い方がよくされます。

 

わたしからすると

「悪意」があってもなくても虐待は「結果」でしか考えることできないものです。

「悪意」のあるなしで評価されるのは「道徳」だけです。

虐待の本質は子どもに不利益を与えることにあると考えます。

どんな子どもでもどこかで親子の情と不利益の間で苦しむのです。

 

子どもは親の持ち物ではありません。

子どもは回りからみると何とも「けなげな」ものです。

子ども特にローティーン以下の子どもにとって

生きていくためにはどんな親でも頼るしかありません。

どんな気持ちをもっていても子どもは親に必死に頼ろうとします。

それを自分の持ち物と勘違いする親が多すぎるのです。

 

わたしは医療・教育で「侵襲」という考え方を基本にする必要があると主張しています。

「侵襲」とは人の体や心に影響を与えることを指します。

医療や教育では相手の心や体に影響を与えることなしでは行うことが出来ません。

 

だから

医療従事者も教師も専門的な知識と訓練と覚悟が必要なのです。

残念ながら日本の(たいていの国でも)教育分野ではこの考えが不足しています。

教育という言葉を使うと何でもいいわけにできる流れをとても「気持ち悪く」思います。

 

しかし

仕事とは違って親に玄人はいません。

覚悟は必要でも(覚悟がない人もいるが)知識・訓練がなければ親になれないわけではありません。

逆に知識・訓練があっても親になれるわけでもないでしょう。

 

自分の過去を思っても

そんなけなげな子どもたちを見ていると涙が出てきます。

それは親がいい親であるかそうでないかとは関係ありません。

 

たとえ

最高の親であっても

子どもと親は他人(別の人格)なのです。

親子に情が必要なのは当然です。

 

でも

同時に親が子を他人であることを認められなければ

突き詰めていくとそれは虐待の根なのかもしれません。

 

精神医学者の杉山登志郎さんによると日本の虐待児童の保護状況は世界最悪の部類にはいるようです。

 

そこには子どもを人として認めていない現実があるのでしょう。

(世界でも珍しい「親子心中」という現象はそれを示しているそうです)