西欧・北米では「ダイバーシティ(多様性)」が主張されています。
日本でもオリンピック東京2020でも「ダイバーシティ」が目標とされました。
ここでは全体に対する議論はしませんが
西欧・北米では一番基本的なところで多様性が成り立っていない社会です。
わたしからすると残念ながら今の議論はエリートのための議論としか思えません。
彼らの社会ではジョブワーカーとエリートが完全分離していることが普通です。
Ph.D. (学位=博士号もち)はテクニシャン(現場技術者)を見下します。
わたしも「米国の学位はすばらしい」かぶれの人間に
米国で学位をとった高名な学者の著書に対するわたしの書評へ
実際の批判内容ではなく
日本の大卒程度のお前が博士様の著書を批判するのは恐れ多い?と攻撃されたことがあります。
彼は博士様でなければ無条件に研究・学問の質が低いはずだという偏見をもっています。
※文献学的方法の限界 《書評》『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 小熊英二』
彼は日本の民間教育団体が教育法で世界をリードする成果を上げているのに
その事実を知らないで
現場での成果ということで頭からバカにしていました。
批判というよりも名誉毀損に近い書き込みでした。
(そのお方は米国の学位もちだそうですが批判内容からきっと彼は「罵詈雑言」の学位をお持ちでは?と思いました)
そんなことをする者がいたためかamazonでは書評に対するコメントをつける機能を廃止しました。
そんな現実が一番よく分かるのが応用技術の現場です。
応用技術では成果がすべてなので方法は多様だということです。
それでも、彼らは学位がないというだけで最初から相手の話を聞こうともしません。
やたらと「どこの大学を卒業したんだ」とか「どこの会社にいたんだ」と
能力を見ずにそれだけで相手を評価します。
そのくせに、専門性が高すぎて「このデータはどうなんだ?」とか聞くと「それはおれの仕事ではない」とか平気で言ってくるそうです。
その専門に関してはしっかりやって必要なデータが出てくるのに応用的なことは一切やってくれない。
新コロナウイルスについての研究報道でも、遺伝子解析から「推定」される感染力の変化とか、シミュレーションによる感染拡大の「推定」とかばかり強調されて
自分でデータを取るわけではない「専門家」が大きな顔で発言をしています。
(PCR検査の有効性など最たるものです。陽性の結果だけが一人歩きしています)
気候変動騒動でもシミュレーション優先で実際に日々気温を測っている人間と「研究者」の感覚にずれがあります。
わたしはシミュレーションは未来の予測はできないと考えています。
「科学」は繰り返されるという条件(再現性)で成り立つもので
原理的に未来を予測することなどできないのです。
(近未来は「推定」できます。天気予報がいい例です。)
これって科学論の基本です。
わたしから言わせれば科学を知らないのは彼らの方です。
Researcher Engineer Technician の区別が進んで、データを取る人と、それをもて遊ぶ人の分断が世界的に進んでいます。
それが社会的地位・待遇差に及んでいるわけです。
有名だったドイツのマイスター制度は職人の独立の規制で
腕のいい努力する人たちを守っていたのに
EU統合でマイスター制度が参入規制とされために制度はボロボロになった。
今のマイスターは自分の子供は大学に行かせるしかなくなりました。
今、多様性が話題になっているのは
エリートたちが自分たちの都合がいい範囲でのことか
現実の多様性に気づいていないからのことでしかないように思えます。
言ってみれば
現実世界の問題点を他人のせいにしか求められないエリートたちがはやりの言葉に食いついているだけだと思います。
(差別があるのは差別者がいるからだ?)
その原因を他人の意識に求める限り
これからも流行りの言葉に乗りかかり挫折が繰り返されるのは変わらないでしょう。