我々はまず物事に対して反応する。
その時にまだ言葉にならない漠然とした意識が生まれる。
普段はこの状態で行動する。
(これは「反射行動」と呼ばれ 間脳・小脳での反応である)
物事を考える時、自分で記録に残す時、他者に伝える時に、そのままのまだはっきりしない意識の塊を言葉にする必要が起きる。
(これが大脳でのはたらきである まだ言葉になっていない)
しかし
意識を言葉にする時には我々は意識をそのまま言葉にすることはできない。
なぜなら
言葉とは抽象だからである。
たとえば、不幸があって「悲しさ」を感じた時、自分が感じていることを「悲しい」という言葉で表してしまうと相手に「悲しい」という感情を伝えることはできる。
しかし、相手と共通ではない「自分の悲しみ」は伝えることはできない。
だが、たいていはここで伝わってしまったような錯覚に陥る。
ここで起こっていることは理解ではなく「了解」である。
理解は大概は「誤解」を含んでいる。
「了解」は互いのいいかげんさの上に成り立っている。
つまり
相手に伝えるためには自分にしかわからない部分(具象)を捨てて、相手とわかりあうことができる共通部分だけ(抽象)で伝えあうしかない。
抽象とは共通の理解をするために共通ではない部分をそぎ落としたものである。
皮肉なことに相手と共通のものを伝えあうための方法は最も大事な自分にしかわからないことを捨て去ることなのだ。
これが「言葉の具象を抽象にするはたらき」である。
言葉のはたらきとは具象(個別)を抽象(共通)にすることである。
意識を言葉にする時は必ず何かを切り捨てることになる。
意識の中から共通のことだけを取り出す。
これが言語化(「ことば」にすること)である。
ただし
我々は経験や感情をともにすることで、切り捨てられた何物かを補う。
動作で伝えている部分も大きい。抽象の中から再び具象をよみがえらせる。
これが「伝え合う」ということである。
言葉で表すことはかならず何かを切り捨てていることになる。
よりよく伝えるためには、たやすく相手がわかってくれるなどという幻想を捨てることから始めなければならない。
だから、我々は伝えるためには努力と技術を要求されるのだ。