定義の問題です。脳に限っての話だけど、どこまでが人間でしょうか。

 

俺の場合、75%を超えたあたりからちょっと微妙な気がしてきます。

90%超えてくると、もはや生体脳を使った機械だと思えちゃいます。

99%にもなるとほぼ完全に機械だなと思えます。

 

これは人間の定義の問題です。

同じようなことは体全体にも言えます。

 

手足の一部が義手や義足の人は人間です。

両手両足が義手義足の人も人間です。

首から下が機械の人も人間です。

 

でも脳以外が機械の人も人間と言えますか?

さらに脳の90%が機械の人も人間と言えますか?

 

映画「GHOST IN THE SHELL」でこういう問題を扱ってますね。

 

人間の定義とはなんなのか?

悩ましいもんだいです。

般若心経によると、悟りとは全てのモノには実体がないと理解すること。

今自分にあるこの感覚、この思考、この思い、それら全てに実体がない。

 

ちょっとわかりにくいと思うので簡単な例を出してみる。

 

例)リンゴが重力に従って落ちた。

 

・現象には実体がない

「重力」「落ちた」ということは現象である。

例を言い換えてみると、「リンゴが重力と言う現象によって落ちるという現象が起きた」となる。

 

目の前で物が落ちているとこは見えるし、その現象をある程度具体的に定義することはできる。

しかし落ちているリンゴを掴むことはできるが、「落ちる」ということそのものを見たり掴んだりすることができない。つまり実体がない。

 

・そもそもリンゴも実体がない

物体は原子などの素粒子の複雑な絡み合いによって構成されている。

つまりリンゴとは我々が思っているリンゴ「らしい」素粒子の絡み合いという現象なので、やっぱり掴むことができない。つまり実体がない。

 

そんなこと言ったってリンゴ掴めてんじゃん、リンゴは実体があるってことだろ?と思いたくなるけど、それはリンゴと言う現象と手と言う現象が起こす現象なのだ。

あえて頭がおかしくなりそうな表現にすると、「リンゴを掴むということを掴めない」。

 

・さらにリンゴなんて見えてない

なんでかっていと、「目に見える」という目の感覚器官を通した感覚自体が現象に過ぎないからだ。

見えるという現象は確かに起こっているが、その現象を掴むことはやっぱりできない。

触れたり臭いを感じたりすることも同じだ。

 

 

つまり、我々が知っている全ての事には実体がある物などない。

もちろんこれから知ることも含めて、永遠に全ての物に実体ができることはない。

 

 

・単なる現象と、人間として大事な現象は次元が違う話

実体がないって言ったって、野球ボールが飛んできて頭に当たって死んだらどうすんだ。

いくら実体がないって言っても問題だろう?

 

確かにそうだ。

しかしそれとこれとは話の次元が違う。

悟るということは「全ての物は現象であり実体がないということを知る」ことだ。

映画『MATRIX』で”道を知ることと歩むことは違う”と言うセリフが出てくるがまさにそれだ。

 

この世界が何なのかを知ることと、この世界で生きていくことは違う。

 

 

・と、思った

ここまで書いてようやくタイトルの話になる。

長かった(笑)

 

人の精神や感覚や思考には実体がないのはわかりやすいと思う。

それらを取り出してきて見せることができないからね。

そしたら、この痛み、このイライラが現象でしかない事がわかる。

 

生きる上で、そういう感じが現象であると知ることで、どうにかしやすいのではないかと言うところが本題。

つまり、まずこの世の中がすべて現象でしかないという事を知ろうということ。

 

 

まあ誰にでも思いつくような話です。

知らないことはわからないので、この世の全てを解明できたという確証が得られないからです。

 

もう少しわかりやすい例えにすると。

 

今目の前にリンゴが置いてあるとしましょう。

 

それがリンゴでない可能性を否定できますか?

紙のようなものなら触ればへこむし重さでわかります。

 

ではちょうどリンゴのような固さと重さのリンゴでないものが詰まっていたら?

かじったら味でわかりますね。臭いでもわかりますね。

 

ではそれがリンゴと同じような硬さと重さを持った別の果物に、本物のリンゴと全く同じ味と臭いを科学的に付けたものだったらどうでしょうか。

 

ここまでくると、もはや一般人には「このリンゴが実はりんごでない」ことを証明することができなくなります。

 

それじゃあ専門家に電子顕微鏡とかでみてもらえばいいじゃん、と思うでしょうけど、電子顕微鏡で覗いた細胞が実は有機物でなく、超々小さいナノマシンで構成されているかもしれない事を否定できません。

その顕微鏡が100倍の性能になったところで、それより小さい機械的な何かで構成されているかもしれない可能性はやっぱり否定できない。

これはどこまで行ってもずーっと続きます。

 

というわけで、この世界がこの世界でない可能性が決して無くならない以上、この世界を完全に解明することは不可能。

より小さく小さく観測することで精度はどんどん高めては行けるだろうけどね。

 

機械って言っちゃうから反発しちゃうんだよな。アシモみたいのを想像しちゃうから。

 

有機動作式人間と機械動作式人間って言い換えてみたらどうだ?

どっちも全く同じ機能を持っているという仮定で。

思考実験だからありえない仮定でも問題ない。だから技術的に無理だとかそういう話はなしね。

 

どっちも母親から生まれてきて、死んだり、老いたり、病んだり、悩んだり、考えたり、感じたり、子供を産んだり、夢を見たり、将来を憂いたり、喜んだりする。


機能が全く同一ならどっちも人間っていう名前の付いた機械とみなしていいだろう?

違いはパーツが有機素材か機械素材か、名前がアシモ君か山田君かってくらいのもんだ。

 

というわけで、人間は超ウルトラスーパーミラクルな性能の有機動作式機械であると言ってしまっていいじゃんね。

そんで全く同じに動作するなら機械動作式人間だって人間と言っちゃってもいい。

 

って言うと必ず人間らしさがーとか命がーとか意識がーとか言う人が出てくるけど、脳と全く同じに動作する機械があったとして、脳の半分を変えた奴と、10分の9を変えたやつと、どっちが「ちゃんとした」人間かって明確に言えないだろう?

そういう話だ。

人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。 肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。 - ロマン・ロラン

 

大富豪でもこじきでも、その生活が落ち着いてしまえば、慣れてしまってあまり幸福や不幸を感じなくなる。

逆に言えば、最初はその生活にウキウキしたり落胆したりしてただけで、実際には最初から変わらず、幸福な事でも不幸な事でもない。

どんなものであろうと現在の状況、環境に価値なんてものはほとんどなくて、誰かと比べて価値があるとかないとか思って喜んだりしてるだけ。

 

でもそれがつまりつまらなくない状態。

怒ったり泣いたりしてるときも同じ。

 

それにもいずれ慣れて飽きしまい、つまらなくなる。これが大変な問題だ。

大金持ちになって散々豪遊したが、なんかもうすることないなーってなるとかまあ割と聞く話だよね。

そういう状態こそが本当の不幸だと思う。

つまらなくなくするために何かに熱中出来ていれば(他人に迷惑がかかるかどうかとかはともかく)飽きが来ることはない。

 

 

さてここから冒頭の格言の先、実際につまらなくなくする仕方の話になってくる。

今思いつく選択肢としては

 

・変わらない毎日をのんびりと穏やかに暮らす

・常に感情を刺激してエキサイティングな生活をする

 

個人的にはのんびりと穏やかに暮らしたいと思う。

盆栽とか趣味でもやりながらさ、ばあさんと縁側で茶でもすすって、「あーいい天気であたたかいねー」なんて言ってるのが望ましいね。

それじゃあつまらないかなとも思えるけど、表面的な苛烈さじゃなくて、かみしめて出てくる奥深い味わいを味わうみたいな。

 

逆に一生ずっとギャンブル的にどんどん敷居の高いギャンブルに身を投じて行くみたいな、会社を興していろんな分野で世界中に拡大して行くのなんかもいいんだろうね。

疲れると思うけど、常にエキサイティングな生き方ができるだろう。

それにもとうとう飽きたら、逆にしんどいこととか危険な事を求めるんだろうなあ。

際限なくエキサイティングな人生を送るって大変だ。

 

 

まあ仏教的に言えばそんなものは結局心の問題であって、心なんてないんだからどうでもいいことになるんだろうけど。

wikipedia「唯物論」より

原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方

これはわかる。たぶんそうだと思ってる。

 

場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である

 

ちょっとわかんない。

「構成要素のみから成る」ということが仮に「重力という作用は存在せず重力そのものがある」とするならそれは違うと思う。

重力という現象は確かにある。重力という現象がボールを放り投げたら地面に落下させる。

ボールも素粒子から構成されたボールという現象なのだから、ボールと重力現象とに相互作用があるんじゃないか?

ボールが無ければ、重力が無ければ、ボールが落ちる現象は発生しない。

 

さらに「重力という現象」はあるが重力自体はない。重力というのは、重力ってこれこれこういうものだよ、というように、定義についている名前に過ぎないからだ。

名前は明らかに物ではない。頭の中に浮かぶその名前の文字も物ではない。

 

生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり

物理的現象のみによって説明できるとは思う。ただし物質に関しては疑わしい。

物質とは物をさすんだろうけど、素粒子の振る舞いはそれよりさらに小さいものが作り出す現象、運動であって、物質そのものではないから。

素粒子より小さいものもまたそれより小さいものが作り出す現象に過ぎなく、これは永久につづくと考える。

そうなると最初に何かがあるということは否定される。

永久でないにしても、最小の物質は電気信号の作用による情報に過ぎないのではないか。

 

ということから、自分の考えは唯物論ではなさそうだ。

反対に唯物論の一部は認めているので「意識が存在を決定づける」という唯心論でもなさそうだ。

意識を発生させる現象がないのに先に意識があるというのはちょっとありえなさそうだから。

いやもしかしたら、意識というプログラムが先にあるのかもしれない、とちょっと思ったりもしたけども。

 

wikipedia「性質二元論」より

 

この世界に存在する実体は一種類だが、それは心的な性質と物理的な性質という二つの性質を持っている

そもそも森羅万象が現象に過ぎないという自分の立場からはこれも正しいとは思わない。

ただし目に見える物体的なものと、目に見えない現象そのものとの二つが存在することは正しいと感じる。

 

たとえばパソコンのモニタに絵が映し出されるのは明らかにCPUの計算から発生する現象だけど、映し出された絵自体は存在しない。

は?絵あるじゃん?見えてんじゃん?と思うかもしれないけど、それはモニタに映し出された映像でしかなく、あえて物質的に言うならモニタに過ぎない。

もっと細かく言うなら液晶パネル。

 

感覚の問題もそのようなもので、腕をつねられて「痛い」と感じることは物理的法則にのっとって発生した現象だけど、「その痛み」を取り出すことはできない。よって存在はしない。

 

しかし実体がないのに、痛みを感じるとストレスになり、その効果は物理的現象(胃痛とか)に影響を及ぼすじゃん?

と思ったけど、脳内の処理によって痛みを感じさせるという現象を起こしつつ「ストレスという現象がトリガーとなった胃痛という現象」を起こしたわけで。

そのように考えれば脳内処理によって感じた胃の痛みは脳内処理に還元されないと考える。

あくまでも胃痛現象から起こされた痛みを感じとっているだけ。

 

しかしその感じ取った痛みから思考(意識)して、原因を取り除こうとするのは物質的現象によるものかどうかはちょっとわからない。

脳内では痛みという信号が発生した場合に最も最適な解決策を脳内のデータベースと照合して最適な行動を促すかもしれないけど、その行動をとるかどうかの選択の余地はあるわけで。

 

自分の考えはどうも唯物論と性質二元論とを足して2で割ったようなもののような気がするが、なんだかそれもしっくりこない。

 

あえて言うなら「空論」だろうか。

全ての物は現象にすぎず、現象が積み重なってさらなる現象を作り、またそれらが集まってさらなる現象を作る。

現象と現象の相互作用ですべての物事が説明できる、と考えている。

だからすべての物事は現象に付けられた名前にすぎず、この世の中に物質というものや精神、意識というようなものはどれも実在しない。

自我というものが無いので自我をなくすことはできない。

善がないから悪もないので、悪を取り除くことはできないし、善になることもない。

 

今この時、この状態が全てでありそして全てでない、というわけのわからないことになるわけだが、言葉で伝えられる内容には限度があるので、そのわけのわからないものを体感するしかないということになるらしい。

 

論点があっちこっち飛んで意味不明ですw

いろいろ語りつくされてる感があるいまさらな話題ではありますがw

ちなみに専門知識などまったくない素人のたわごととでも思って見てください。

 

まずはこちらを。

幽霊の正体は何なのか 研究者がひとつの有力な解釈

 

簡単に言うと「脳の感覚処理のミスにより、いないものがいるように感じてしまう」みたいなこと。

これでまた一つ、幽霊の謎に近づいたのかもしれない。

でもはっきりと見えちゃうとかそういうのはたぶんまだまだ分かってないんだろうね。

見てるそばで窓に手あとがついてくとか。

 

ところで気になったんだが、「幽霊 存在」で検索していくつかサイトを見て回ったんだけど、否定派の言ってる内容がちょっと気になった。

 

「論理的に考えて霊が見えるなんてありえない、妄想だ」とか、あり得ない理由一杯書いてるけど。

(もちろん逆に肯定派の「見えるから見える!」ってのも同じと思うわけだけどw)

 

実際の科学的なあれはようわからんけど、科学的な考え方というのは「現象があってそれをどのように考えたら説明がつくか」だと思うんよね。

あとは実際にそれが観測、もしくは人為的に再現できるかどうか。

それができれば考え方が合ってるとみなすし、できなきゃ仮説の域をでない。

 

例えばリンゴが落ちたらリンゴが落ちる理由があるわけで、でも重力の仕組みはよくわかってなくて、「重力子っていうのがあるんじゃないか?」みたいな。

まだ仮説段階で発見はされてないみたいだけども、今んところそうじゃないと説明つかないぞ!ってことで。

 

幽霊に関していえばも否定する側も肯定する側も、そういうのをすっ飛ばして最初から「いる/いない」という結果につじつまをあわせるように論理展開してるように見えんのね。

つまり最初からいないと決めつけてる人はいない証拠ばかり集めるし、そういう論証しかしないわけだ。

「ただしこの部分に関してはわからない」とか、「肯定側の意見も一理ある」とかあまり言わない。

それに、「いろいろな証拠らしきものなどから考えて論理的にはこうなるはずだからいない」と言ってるだけで、実際に観測、検証されてないわけだ。

リンク先の研究者たちはちゃんと実験しててすごいよね!

 

ってなわけで、否定派は「状況的にこれはありえない」ということは言えても、再現や観測によってありえない証拠がきちんとでてるわけじゃないので、仮設の域をでない。

要するに、「わからんけどこっちのほうが確からしいんじゃね?」と言ってるだけなわけだ。

 

そんな材料しかないのに絶対いない!とかいる!とか言ってもしょうがないわけで。

大槻教授みたいに、いない!と強弁してるけどちゃんと実験して結果を出してる人はいいけども。

 

俺はどっちの内容も見て、いまんところこっちのほうが確からしいなーとかは思うけど、実際にはわからんと思ってる。証拠もなにもないしね。

 

ちなみに個人的にはいると思ってる。証拠は特にない、心証。

友達が見てるからとかそういう理由。あと、いたらいいなという願望かな。

ほら、フライングフィッシュみたいにロマンを掻き立てられるじゃん?w

 

でもいないかもしんないしわかんない。というスタンスしか取れない。

前に3度ほど見えた経験はしたけど、一瞬のことだったから本当に見えたかどうか怪しいし、再現もできないしね。

動画の冒頭で言われてる内容を書くと

 

  • リサイクル貢献のためゴミを分別
  • レジ袋の代わりに「マイバッグ」「専用ゴミ袋を!」
  • 地球温暖化による海水面上昇、生物の絶滅
  • 森林は二酸化炭素を吸収するから、緑を守る
  • ダイオキシンが出るから、焚き火は危険

これらすべてがウソである!!

 

となっている。

いつも資源に関して当たり前と思ってみんな普通にやってると思うけど、実は逆に環境にわるいとか言っていて、ガセじゃないの?

と思うかもしれないけど、しっかりとした研究をしている学者さんがわかりやすく説明しています。

 

もちろん自分自身もいいことだと思ってやってたわけだけど、これ見たらもう、プラスチックとかペットボトルは燃えるゴミに入れちゃえー思ったねw

 

だってさー、一生懸命労力をかけてだよ?わざわざ分別したゴミが返って環境に悪いなんて事実をつきつけられたら、「なんてアホらしいことしてんだろwwww」ってなるじゃんねw

 

 

 

【追記】 2016/09/16

 

えーいままでの常識うそだったのかよー!!

ということで飛びついてしまったんだけど、この動画で言ってることにもいろんな「抜け」があるようで、以下のサイト

 

http://www2u.biglobe.ne.jp/GOMIKAN/sun5/sun63b.htm

 

のようにかなり批判されているようだ。

 

ただし、上のサイトを見て「武田さんの意見は全く間違い」のように信じることにも抜けがあると思う。

というのは、各々の専門家が言っていることが必ずしも正しいとは限らないから。

 

しかしかなりの部分で否定的な意見が出されていることを知らなかったので、自分で情報を集めてよく考えないといかんなーと恥じた次第でありました。

 

 

とはいえ、環境問題、リサイクルなどの中にはかなりのウソが混じっているのは本当だと思う。

なんにしてもそうだけど、まったくもってクリーンなことなんてないもんね、人間がすることだから。

ファンにとってはそんな新しい曲じゃないんだろうけども、先日なんかの動画をyoutubeで見ていたら「次の動画」で再生されて、その日、次の日とずっと聞いてたくらい気に入ってしまったw

 

The beginningに関してはバンド名もこの曲も知らない、にわかファンとも呼べない自分だけども、PVの意味が気になって調べてみた。

結構PVの意味が気になるタイプなんだよね。

 

で、次のブログに行きついた。

【one ok rock】the beginningのpv意味!出演者や石に隠された謎!

 

これを読んでみて、ほー!と思ったんだけど、あとで自分の中で閃きがあって、少し解釈に手を加えてみたいと思ってブログを書こう、と。

▼PV

 

まず上記ブログの大枠をかいてみる。

 

・クリスタルは人類の歴史を記録したメモリ

・女性はロボット

・女性は男性から受け取ったクリスタル(メモリー)から内容をインストールしている

・このPVにおいてのワンオクの立ち位置は神

・女性を操作していたのは神(ワンオク)

 

といったとこかな?

 

自分は解釈が大枠としては割としっくりきたので良かったんだけど、気になったのは「ワンオクは女を使ってなにをしたかったのか(または女にどんな役割を与えたのか)」ということが書いてないのね。

あと男の役割もわからないままになってる。

 

そこでそれらを含めて自分なりの解釈を足して考えてみる。

 

・クリスタル

大枠の通り人類の歴史(男が見聞きした人類の歴史)のデータが入ったメモリっていうのでよさそうなんだけど、「UNTIL TRANSFER START」の場面で血管の中を進んでいくような描写が入っている。

これはクリスタル自体にデータがあるんじゃなくて、人間の記憶にアクセスするための媒介としての機能があり、血管をつたって人間の脳細胞まで行き、データを読み取るってシーンなのかもしれないなと思った。

もしくは記憶や人格や魂を丸ごと吸い取ってデータに変換して読み込む仕組みなのかもしれない。それを「神に召される」ということにしているとか。

だから男は倒れたのかも?

 

・男はなんなのか

男は見たもの聞いたものなどのデータ収集するように女の指示を受けた人間(表情があるから)。

人間である男が痛みに耐えてそれをやらなければならなかったのは、上位の存在をあがめているからで、どんなに苦しくても女にデータを渡すまで倒れない、終われない、ということかなーと。

ということは男は女に作られた存在か、女の手足となるように神に作られた人間か、女を神として疑わない信者か。とにかく絶対に神(女)に従わざるを得ない立場じゃないだろうか。

 

海岸で女を見つけた時のハッとした目がまさに「やっと会えた!」って感じで、「苦痛に満ちて何度倒れても続けてきた旅がこれで終わる、神に召されるんだ・・・」という安堵感を含んでいるような気がする。

 

・女はなんなのか

 

役割はただただデータを収集すること。男がそうだったように、自分もまた、ただの神の代行者または手足として。

 

女はロボットでも何でもいいんだけど、自分としては、クリスタルの内容をデータとして取り込むことができる特殊な能力を持った人間としたほうがしっくりくる。

 

女はずっと無表情だが、自分が神の駒であるという認識があり、何度も繰り返し人間を使って任務をこなしてきたから、慣れて坦々とその任務をこなすようになったからかなと。

しかし男が倒れた後涙を流したということは、やはり慣れては来ても感情がこみ上げてくるからなんじゃないだろうか。

と考えると、自分としては女は人間なのかなーと。

もちろん人間と同等の高度なAIを持ったアンドロイドでもいいわけだけども。

「ロボット」というのがウィーンガシャン!っていうのをイメージさせるから、なにか違うなと思ったのかもしれないw

 

・女はどんな感情で泣いたのか

 

女の役割はこれまでにも書いたようにデータ収集。理由もなくただただ集める。

 

女には「これは人間に命をかけさせてまでやることなのか?」という疑問が最初からあって、データ収集をさせるためだけに神の代行者として人間に命令し、命をかけさせる罪悪感。

それと、目の前で繰り返し人間が倒れていくのを何度も見なければならない、そんなつらい役割を自分が負わされているという理不尽さ。

 

そういう感情があって泣いたんじゃないだろうか。

もかしたらこの任務を開始してしばらくは毎回大泣きしてたのかもしれない。

 

 

一杯かいたから疲れたw

もう一つ最大の疑問が残ってた。

 

このPVのなかで神(ワンオク)が女を使ってしたかったこと。それが歌詞をみてもわからない。

 

ブログにこう書いてあった

 

どうやら、このPVの監督は
maxilla(マキシラ)というクリエイティブ集団です。

るろうに剣心の映画監督とは全然、別の人達で、ワンオクから、PVの内容も完全に一任されたそうです。

なので、映画とは完全に独立してPVを作っています。

つまりは、このPVのストーリーや意味はmaxillaが作っています。

ということなので、このPVにおけるワンオクの立ち位置は特に与えてない気がする。

このPVは男の立場に立って歌っているという解釈でいんじゃないかな。

 

そうするとワンオク=神ということが崩れてしまって、今までの解釈が崩れちゃうんだw

神に命令を与えられた女、その女に従う男という構図が。

 

気になったのがこのPVでは女と男以外の人間が映っていない。

道路とか人工物が映ってるけど、人の生活をにおわせるような家とか街とかも映ってない。

あえてそうしたのかどうかわからないけど、あえてそうしたとしたら、二人はアダムとイブ的なもので、人類が滅亡した世界で、男がなぜそうなってしまったのかをいろいろ調査してきたのを女が吸い取って、さて一人でなにしようかなーって風にも見えてくる。

 

 

以上、「ファンでもなんでもないやつが何勝手な解釈してんだ(#゚Д゚)ゴルァ!!」ってコアなファンから言われそうだけども、つらつらと書いてみたのでした。

 

どうでもいいけど、PVの男がところどころ坂口憲二、平井堅に見える部分があるw

ストレス。

このブログで最近言ってる事で考えれば、現象であって実体がない。

これは脳の、それも記憶からくる現象だと考える。

 

体からくる痛みとか空腹とかの不快な信号を受け取ってストレスになる場合でも実体はないわけだけど、これは生きていくのに必要な仕組みなので無視してはいけないものだ。

 

しかし人間関係や物事がうまくいかないことによる精神的ストレスというのは、自分にとって何を良しとするかという問題に過ぎないと思う。

そしてそれはたぶん過去に起こったことから蓄積した記憶によって作られる。

例えばこれをやったら褒められたとか怒られたとか。

 

 

でもここでちょっと考えたいとこがあるんだけど、褒められたとか怒られたっていうのは、まだあまり記憶の積み重なってない幼い頃からあるってこと。

 

赤ちゃんの頃は腹が減ったとかウンチを漏らして気持ち悪いとかっていう身体的な快か不快かで反応しているはず。

それに対して褒められたとか怒られたとかってことは全くの精神的なもので、記憶が積み重なってない状態では快か不快かという分別がないはずだ。

 

でもこれがあるっていうのはおそらく生得的なもので、命に関わる部分だからなのだと思う。

例えば狩猟時代の集団生活において、仲間外れになると命の危険が増えるとか。

 

そうであれば、人間には命に危険を及ぼすことに繋がる精神的な恐怖というものが生まれたときから根底にあり、それにつながるであろう行動の良し悪しを学習し、それが記憶され積み重なってなるべく命に対する危険を遠ざけようとするのが人間の生得的な仕組みなのかもしれない。

仕事などで失敗した→怒られる→修正しないと仲間外れになる→命の危険が増える

みたいな。

 

 

そんなこんなで作られた「この行動は最終的に命の危険に繋がる都合の悪いこと」と学習し記憶され蓄積されたパターンに該当する行動がストレスを感じさせるんじゃないだろうか。

 

そしてストレスを感じやすい人っていうのは、そのパターン学習が過剰なんじゃないかだろうか。

つまり、社会的にこれはまずいと学習したパターンが多すぎて、かなりたくさんの項目が自分の中で「悪い」ことになってしまいストレスを感じてしまう。

さらに自分の中で悪いと思ったことは人にも当てはめてしまうので、あいつのああいうところが気に食わねえ!となる項目もすごく多いわけだ。

 

そして過剰になったストレスが行動を抑制させ、著しく消極的になった状態が精神的な病気なのではないか。

 

 

というわけで、生きやすくなるためにはこのストレスをなんとかするのが一番良いわけだけども、巷でよく言われる「ストレス発散」なんてものは一時しのぎに過ぎないわけだ。

また病院で薬をもらうのも一時しのぎに過ぎない。

 

大事なことは、ストレスを発生させないこと。

 

一時しのぎが悪いというわけじゃなくて、しのいでる間にストレスを発生させない脳を作らないと根本的な解決にならず、何度も同じことを繰り返すはめになる。

 

さて、ではストレスの正体が分かったうえでどうすればいいかを簡単に言うと、「これは悪い」と思うパターンを減らしてしまえばいいわけだ。

(話はそれるけど、この悪いという事を一切なくした状態を「悟る」というんだと思う。

悪いことがないってことは、その逆、つまりいいってことも無い。いいも悪いもない見方で世界を眺める事ができた状態)

 

これには方法が三つあると思う。

 

1つは徹底的に論理思考を働かせて、道理が通っているかいないかで考えて行動してみる。

これは精神力だけでタバコを止められる人とかなら可能かもしれないけど、たぶんそんな人はそもそもストレスを感じにくい脳だと思う。

 

もう一つは、考えないでとにかくやってみて結果を感じる。これはいわゆる認知療法で、やってみて「なんだ、案外怖がることじゃねーな!」と感じていくことで、恐怖とかに対する認識を変えていく方法やね。

 

そして最後は、説明したような脳の仕組みを徹底的に突き詰める方法。

不快や恐怖を感じさせるのは脳の仕組み的にそうなっているだけで、元は記憶というデータ、そしてそれを伝達する脳細胞、そこを走る電気信号、そういうことから成り立っている現象そのもので、実際には存在しないものだ、と理解すること。

心なんてなくて、だから不安や恐怖を感じるってこともなくて、すべては脳内の情報処理。

だからそんなものに踊らされること自体がナンセンスだと理解すること。

 

俺はタバコをやめるとき、一つ目も二つ目もできなかったので、三つ目を考えてみている。

タバコをうまいと感じたり、吸わないと不快を感じるということには実体が存在しないわけで、全て脳内のデータの取り扱い、つまり情報処理の問題であると理解すること。

これができれば不快は実は不快ではなくて、そう感じさせられているだけだと思える。はず。