wikipedia「唯物論」より
原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方
これはわかる。たぶんそうだと思ってる。
場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である
ちょっとわかんない。
「構成要素のみから成る」ということが仮に「重力という作用は存在せず重力そのものがある」とするならそれは違うと思う。
重力という現象は確かにある。重力という現象がボールを放り投げたら地面に落下させる。
ボールも素粒子から構成されたボールという現象なのだから、ボールと重力現象とに相互作用があるんじゃないか?
ボールが無ければ、重力が無ければ、ボールが落ちる現象は発生しない。
さらに「重力という現象」はあるが重力自体はない。重力というのは、重力ってこれこれこういうものだよ、というように、定義についている名前に過ぎないからだ。
名前は明らかに物ではない。頭の中に浮かぶその名前の文字も物ではない。
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり
物理的現象のみによって説明できるとは思う。ただし物質に関しては疑わしい。
物質とは物をさすんだろうけど、素粒子の振る舞いはそれよりさらに小さいものが作り出す現象、運動であって、物質そのものではないから。
素粒子より小さいものもまたそれより小さいものが作り出す現象に過ぎなく、これは永久につづくと考える。
そうなると最初に何かがあるということは否定される。
永久でないにしても、最小の物質は電気信号の作用による情報に過ぎないのではないか。
ということから、自分の考えは唯物論ではなさそうだ。
反対に唯物論の一部は認めているので「意識が存在を決定づける」という唯心論でもなさそうだ。
意識を発生させる現象がないのに先に意識があるというのはちょっとありえなさそうだから。
いやもしかしたら、意識というプログラムが先にあるのかもしれない、とちょっと思ったりもしたけども。
wikipedia「性質二元論」より
この世界に存在する実体は一種類だが、それは心的な性質と物理的な性質という二つの性質を持っている
そもそも森羅万象が現象に過ぎないという自分の立場からはこれも正しいとは思わない。
ただし目に見える物体的なものと、目に見えない現象そのものとの二つが存在することは正しいと感じる。
たとえばパソコンのモニタに絵が映し出されるのは明らかにCPUの計算から発生する現象だけど、映し出された絵自体は存在しない。
は?絵あるじゃん?見えてんじゃん?と思うかもしれないけど、それはモニタに映し出された映像でしかなく、あえて物質的に言うならモニタに過ぎない。
もっと細かく言うなら液晶パネル。
感覚の問題もそのようなもので、腕をつねられて「痛い」と感じることは物理的法則にのっとって発生した現象だけど、「その痛み」を取り出すことはできない。よって存在はしない。
しかし実体がないのに、痛みを感じるとストレスになり、その効果は物理的現象(胃痛とか)に影響を及ぼすじゃん?
と思ったけど、脳内の処理によって痛みを感じさせるという現象を起こしつつ「ストレスという現象がトリガーとなった胃痛という現象」を起こしたわけで。
そのように考えれば脳内処理によって感じた胃の痛みは脳内処理に還元されないと考える。
あくまでも胃痛現象から起こされた痛みを感じとっているだけ。
しかしその感じ取った痛みから思考(意識)して、原因を取り除こうとするのは物質的現象によるものかどうかはちょっとわからない。
脳内では痛みという信号が発生した場合に最も最適な解決策を脳内のデータベースと照合して最適な行動を促すかもしれないけど、その行動をとるかどうかの選択の余地はあるわけで。
自分の考えはどうも唯物論と性質二元論とを足して2で割ったようなもののような気がするが、なんだかそれもしっくりこない。
あえて言うなら「空論」だろうか。
全ての物は現象にすぎず、現象が積み重なってさらなる現象を作り、またそれらが集まってさらなる現象を作る。
現象と現象の相互作用ですべての物事が説明できる、と考えている。
だからすべての物事は現象に付けられた名前にすぎず、この世の中に物質というものや精神、意識というようなものはどれも実在しない。
自我というものが無いので自我をなくすことはできない。
善がないから悪もないので、悪を取り除くことはできないし、善になることもない。
今この時、この状態が全てでありそして全てでない、というわけのわからないことになるわけだが、言葉で伝えられる内容には限度があるので、そのわけのわからないものを体感するしかないということになるらしい。
論点があっちこっち飛んで意味不明ですw