ストレス。

このブログで最近言ってる事で考えれば、現象であって実体がない。

これは脳の、それも記憶からくる現象だと考える。

 

体からくる痛みとか空腹とかの不快な信号を受け取ってストレスになる場合でも実体はないわけだけど、これは生きていくのに必要な仕組みなので無視してはいけないものだ。

 

しかし人間関係や物事がうまくいかないことによる精神的ストレスというのは、自分にとって何を良しとするかという問題に過ぎないと思う。

そしてそれはたぶん過去に起こったことから蓄積した記憶によって作られる。

例えばこれをやったら褒められたとか怒られたとか。

 

 

でもここでちょっと考えたいとこがあるんだけど、褒められたとか怒られたっていうのは、まだあまり記憶の積み重なってない幼い頃からあるってこと。

 

赤ちゃんの頃は腹が減ったとかウンチを漏らして気持ち悪いとかっていう身体的な快か不快かで反応しているはず。

それに対して褒められたとか怒られたとかってことは全くの精神的なもので、記憶が積み重なってない状態では快か不快かという分別がないはずだ。

 

でもこれがあるっていうのはおそらく生得的なもので、命に関わる部分だからなのだと思う。

例えば狩猟時代の集団生活において、仲間外れになると命の危険が増えるとか。

 

そうであれば、人間には命に危険を及ぼすことに繋がる精神的な恐怖というものが生まれたときから根底にあり、それにつながるであろう行動の良し悪しを学習し、それが記憶され積み重なってなるべく命に対する危険を遠ざけようとするのが人間の生得的な仕組みなのかもしれない。

仕事などで失敗した→怒られる→修正しないと仲間外れになる→命の危険が増える

みたいな。

 

 

そんなこんなで作られた「この行動は最終的に命の危険に繋がる都合の悪いこと」と学習し記憶され蓄積されたパターンに該当する行動がストレスを感じさせるんじゃないだろうか。

 

そしてストレスを感じやすい人っていうのは、そのパターン学習が過剰なんじゃないかだろうか。

つまり、社会的にこれはまずいと学習したパターンが多すぎて、かなりたくさんの項目が自分の中で「悪い」ことになってしまいストレスを感じてしまう。

さらに自分の中で悪いと思ったことは人にも当てはめてしまうので、あいつのああいうところが気に食わねえ!となる項目もすごく多いわけだ。

 

そして過剰になったストレスが行動を抑制させ、著しく消極的になった状態が精神的な病気なのではないか。

 

 

というわけで、生きやすくなるためにはこのストレスをなんとかするのが一番良いわけだけども、巷でよく言われる「ストレス発散」なんてものは一時しのぎに過ぎないわけだ。

また病院で薬をもらうのも一時しのぎに過ぎない。

 

大事なことは、ストレスを発生させないこと。

 

一時しのぎが悪いというわけじゃなくて、しのいでる間にストレスを発生させない脳を作らないと根本的な解決にならず、何度も同じことを繰り返すはめになる。

 

さて、ではストレスの正体が分かったうえでどうすればいいかを簡単に言うと、「これは悪い」と思うパターンを減らしてしまえばいいわけだ。

(話はそれるけど、この悪いという事を一切なくした状態を「悟る」というんだと思う。

悪いことがないってことは、その逆、つまりいいってことも無い。いいも悪いもない見方で世界を眺める事ができた状態)

 

これには方法が三つあると思う。

 

1つは徹底的に論理思考を働かせて、道理が通っているかいないかで考えて行動してみる。

これは精神力だけでタバコを止められる人とかなら可能かもしれないけど、たぶんそんな人はそもそもストレスを感じにくい脳だと思う。

 

もう一つは、考えないでとにかくやってみて結果を感じる。これはいわゆる認知療法で、やってみて「なんだ、案外怖がることじゃねーな!」と感じていくことで、恐怖とかに対する認識を変えていく方法やね。

 

そして最後は、説明したような脳の仕組みを徹底的に突き詰める方法。

不快や恐怖を感じさせるのは脳の仕組み的にそうなっているだけで、元は記憶というデータ、そしてそれを伝達する脳細胞、そこを走る電気信号、そういうことから成り立っている現象そのもので、実際には存在しないものだ、と理解すること。

心なんてなくて、だから不安や恐怖を感じるってこともなくて、すべては脳内の情報処理。

だからそんなものに踊らされること自体がナンセンスだと理解すること。

 

俺はタバコをやめるとき、一つ目も二つ目もできなかったので、三つ目を考えてみている。

タバコをうまいと感じたり、吸わないと不快を感じるということには実体が存在しないわけで、全て脳内のデータの取り扱い、つまり情報処理の問題であると理解すること。

これができれば不快は実は不快ではなくて、そう感じさせられているだけだと思える。はず。

ひらめいたんだけどちょっとわかりやすくなると思うんで書いてみる。

パソコン使ったことある人ならわかると思うんだけど、フォルダってあるよね。
フォルダってのは、ファイルを分類するためにあるわけだけども、フォルダの中にファイルはあるけど「フォルダ自体」にはなんの内容もない。単なる分類名。

さらに細かく分類するために、「動物」っていう名前のフォルダの中にさらにフォルダを作ることができるよね。
例えば犬とか人とか象とか。
それをさらに細かく分類すると、例えば犬ならチワワとか柴犬とかってできて、それをさらに細かく分類すると、なんとかのミックスだとかなんとかかんとか作れるよね。

こうやってどんどん細かく分類していくと、果ては粒子レベルまでずっといけるわけで、そうすると実はフォルダの中にファイル(実体)なんて一個もなくて、フォルダの中に延々とフォルダが入っているだけってことになる。
つまり、○○さんちのコリーちゃんも俺もフォルダ名に過ぎないってことね。


パソコンに疎い人に説明するなら、書類をまとめるファイルにインデックスってつけるよね?決済関連だとかなんとか。
でもインデックス自体は分類名であって、それ自体にはなんの中身もない。中にある書類を項目わけしてるだけのただの目印。
それを延々と細かく分類してくと、インデックスだけがどんどん増えてって、どこまで行っても中身なんかない。


これが実体がない、っていうこと。


目に見える物も、見えないものも、全部がフォルダ名、定義名、概念に過ぎない。
だから「もっと心を強くしたい」とか言ってみても、それはフォルダ名(インデックス)「自体」を強くしたいって言ってるわけで、そんなことはできない。
っていうか意味が分からない。

せいぜい強い心っていうフォルダができるだけ。そしてそれのなかにはやっぱりフォルダしかないんだな。
テセウスの船(wikipedia)

面白いので俺も考えてみた。

テセウスの船の話を現代的にたぶんわかりやすく書いてみると、

「何度もパーツ交換している俺の自転車は、パーツを替える前の俺の自転車と同じなのか」

ということになると思う。

さらに、

「交換されたパーツを組み合わせてなんとかもう一台自転車を作ったら、それは俺の自転車と同じと言えるのか」

という疑問も投げかけてある。

そんでウィキペディアの説明では、誰々がこう考えてこんな回答を出しましたーっていろいろ書いてあるんだけど、話はもっと簡単だと思う。
ってのは、定義次第で答えの変わる問題だから。


例えば、河岸工事されてない自然の川は、時間が経つとくねくね曲がって、あまりに曲がると曲がった部分が切り離されちゃう。

川

細かい定義は知らんけど、左のが川で、右はたぶん沼って呼ばれるんだろう。
これは川の定義が水が止まらずに流れていてうんちゃらかんちゃらとか定義されてるから川って呼ばれて、沼は沼の定義があってそう呼ばれるんじゃないか。
沼は「元、川」だったのに、切り離されると沼になる。

そいじゃあ髪の毛はどうだろう?
医学的な細かい定義とかあるんだろうけど、一般的に、抜けた髪の毛も抜けてない髪の毛も髪の毛って言うじゃない?
わざわざ「元、髪の毛」とか言わないし、「抜けた髪の毛はただのゴミだ」とか言わないよねw

じゃあ切り離されたら川から沼になるのと、生えてた髪の毛が頭から離れても髪の毛と呼ばれるのと、現象としてはたいして変わらないのになんで統一されないの?ってなるやん?

これが定義の違いだよね。

もし抜けた髪を「ゴミクズ」って定義したらそうなるし、「沼も川の一部だったから川」って定義すりゃ沼も川になる。っていうかそもそも沼にならない。


さて最初の自転車の話に戻ろう。

月日が経つと錆がうんぬんとかはまあ置いといて、パーツを交換した俺の自転車は、買った時のと全く同じ仕組みのパーツで構成されてるから同じ自転車だ!って定義しちゃえばそうなるし、パーツを交換したんだからもう買った時とは違う!って定義すりゃそうなるってだけの話じゃん?

こんなものはもともと曖昧だった定義を「どっからどこまでをそれと呼ぶか」とか言ってこねくり回してるだけだと思うんだよ。
地球はどこまでを地球と呼ぶか、とか、台風をどこまで台風とするか、っていうのとか。

全く同じ構成の自転車を同じとするかどうか、っていうのも同じ話だよね。
そもそも2台あるなら(存在としては)違う自転車だーって決めてもいいし、構成が同じだから(物としては)同じだーって決めちゃってもいい。

そんなこんなをウィキペディアでは位置情報がーとか4次元がーとか言ってるけど要はそういうことだと思うんだ。
もともと定義が変わると答えが変わっちゃう曖昧なものを、厳密に定義しようとするのはナンセンスじゃない?


でも人間は自分たちで知恵の輪つくって自分たちで解いてみたりするよね。
それに慣れて簡単に解けちゃうようになると、もっと難しい知恵の輪を作って~ってやって永遠に終わんない。
それと同じで、自ら難しい問題を作り出して自ら解いてる遊びだと思う。暇だから。

とか言ってる俺もあまりに退屈すると「毎日退屈してるとしたら、俺は全く世の中の役に立ってないから存在する意味があるのか?」とか考えだして、それも定義次第で変わっちゃう答えの出ない問題なんだけどそういう思索にふけるのが結構好きだし暇は潰れる。
だけどそれだけやってると飽きちゃうから、それとは違う熱中できるものを探してみたりする。

どっかの本かなんかに「人の人生はは生まれてから死ぬまで暇つぶしだ」とか書いてあったけど、確かにそうかもしんないなーと思ってる。
それもたぶん定義の問題なので、そういう風に決めちゃったらそういう風になるってことなんだろけどねw


【追記】2016/8/2

読み返してみると「そんなもん定義をこねくり回してるだけで意味がない」っていう風な感じになっちゃってると思ったので追記。

実際いまこんな風に物事を考えている自分がいるわけで、自分はそれに意味がないとは思ってない。
それはたぶん、俺が考えるのが好きだから、物事をわかりたいから。

だから俺にとっては意味がある。
俺以外のそういうこと考える人にとってもたぶん同じ。
なんらかの答えがでれば違う問題の解決の足掛かりになったりして、でもそっからまたいろんな問題が湧いてきて・・・ってループするんだろうけどそれも楽しい。

じゃあ生きる上でホントに必要なことか?と言われれば、利用できる部分もあるし無い部分もあるし。
少なくとも哲学の分野での考えることにはあまり意味がないと思う。
でも科学の分野では考えたことが実際の生活に生かされるわけで、大いに意味がある。

これはそのまま定義の問題だよね。
「実生活に利用できる=意味がある」「実生活に利用できない=意味がない」と定義しちゃえばそうだし、「実生活に利用できなくても何らかの問題を解決したい=意味がある」って定義すればそうだし。

人がなにに生涯を捧げるか、つまり「人生の意味」をどう定義するかってことはその人次第なわけで、人類全般に当てはまる答えなんかない。
だから自分の好きに生きたらいいぜ、ってなとこで収まるんじゃないかね。

今俺はパソコンの前に座ってるんだけども、このパソコンの中に素粒子レベルから設計できるシミュレーターソフトがあったとしよう。

んで俺はそのソフトでなんかしら設計して、時間の経過で何が起こるのかワクワクしながら見てるとしよう。

神様ってそんなもんなんじゃね?と思ったw


たびたびこのブログで書いているように、この世界には特に何の意味もない。

それは元をたどればみんな素粒子じゃん?その素粒子同士がなんらか関係しあってできてるだけじゃん?ってのもあんだけど、この世界をシミュレートしてるソフトの外側に神様(人間みたいな生き物)がいて、なんとなーくソフトで世界を設計して、そんでそれを見たりいじったりして遊んでんじゃね?
なんてね。

それはちょうど、俺らがありんこにちょっかいかけて遊ぶようなもんなんじゃないのかなーとか思ってみる。

そう考えたら、そんなんして遊んでる神様ってのは人間的な生き物だよね。姿かたちはどうかしらんけど。
人はみんな神様です、っていう思想とかそういうのじゃなくてさw

そんで世界を設計するソフトを複数の人が共有して遊んでるんだとしたら、多神教ってのも頷けるねw
何気に自分の過去のブログみてたら、俺こんなん書いてたんだな

もう一度絶対と相対について考えてみる

なんだこれ?
いま自分の中で割と確信的に思ってることとほとんど同じじゃねえかw

「物事はらせんのようにぐるぐるしながら深度を増して理解を深めていくもの」って確か医者が言ってたのを思い出した。

前より新しい情報を得てるけど、考え方としては同じところに戻ってきたらしい。

でも読み直してみると、前より退化してるんじゃないかと思うとこもあった。

絶対的尺度でものを見ることができないので想像でしか無いけど、多分、全てが同じ価値で見えるんだと思う。

中略

すべての物体は素粒子から成り立っているからとか、その密度が濃いか薄いかとかそういうことでもない気がする。少し近い気はするけど。

最後ら辺にこんなん書いてた。自分。

んで最近確信的に考えてたのは

全ての物体は素粒子から成り立っているから、そのレベルから見たらどんなことも大した違いはない

ってことなんだけど、あの記事には最後に「そういうことでもない気がする。少し近い気はするけど」

って書いてある。
たぶんその時の自分は、今の考えを大体持っていながら少し違う気がしてたんだね。

そしてそれとほぼ同じことを昨日あたりから考えてた。



全ての物質は結局素粒子から成り立っているという意味では全部同じこと。
自分と、自分の形をした彫像にはさして違いがない。もっている機能が違うだけ。

これは確かにそうだと思う。
昨日より前はこれこそが真理だと思ってた。

昨日付け足され気味になってきたのは

真理ってそういうことじゃなくて、全ての物と現象は素粒子の関係によって成り立つ

ってこと。

現象っていうのは例えば台風なんかを指していて、なんらかの力の関係によって成り立っているもののこと。

大事なことは「関係によって成り立っている」ってとこ。
素粒子的に言うならなら、素粒子の振る舞いの変化が互いに影響を及ぼし合って全ての物事が成り立っている。
人間単位で言うなら、全員の変化の影響(関係)によって今の自分が成り立っている。

他との関係によって今の自分は1秒後には違う現象に変わってるし、自分が変わっているから他人も変わる。

チャーリー浜の定番ギャグ(あれはギャグと呼べるのか?w)に「君がいて僕がいる」ってのがあるけど、あれは実はとても深い意味があって、そこまで考えて生み出されたんじゃ?とか一瞬思ったけど、そんなわけはないだろうなw

でもこれこそが「無常」の本当の意味なんじゃねーかと思った。

風が吹けば石は微妙に削れていく。削れた石はいままでと微妙に違う振る舞いをする。
その石の振る舞いが変われば、隣の石や地面にも微妙に変化が現れる。
地面が変化すれば地中の虫たちも変化する。虫が変化すれば畑にも変化がある。
畑に変化があればそれを食べる人間にも変化がある。
変化した人間が石を踏みつけて・・・
などと全部のことが微妙ながらも変わっていくことによって、今のすべてが成り立っている。

もっと身近な例えなら、3人兄弟でプリンが3つあったときと2つしかないときでは、そのあとに起こることは違うじゃん?
みんなでおいしく食べるか、取り合いになって喧嘩するか。

そんな些細なきっかけで兄弟間に溝ができたりまたは仲良かったりして、その兄弟だけじゃなくて親や周囲に影響を及ぼすのは間違いない。

そして影響を及ぼされた親とかの周囲の人たちにも少なからず影響をあたえ、そしてその人達の周囲に・・・と次々と連鎖反応し、その影響もまた兄弟に返ってくる。

イメージとしてはこんな感じのほうがわかりやすいかもしれないけども、実際はすべてがリアルタイムで同時に起こってる。


そうやって、全体が全体に影響を及ぼし合って成り立ってるのがこの世界の本質なんじゃないのかな、と。
スマホをひらいてそこそこいじってると、ホーム画面とかが左右に細かくプルプルすんのね。ホームボタンとかも効かないし、しょうがなく電源ボタン押してスリープ状態にするんだけど、スリープ解除してもやっぱりなる。
ならないときもあるけどだいたいそのうちなる。

”スマホ 勝手に”って検索してみて、初期化なりなんなり載ってた解決法試してみたけどあかん。

んでまあ、開発者モードのとこにタッチ情報を表示ってあったからオンにしてみたらこれは大変!

下のほうが一か所、触ってなくても細かく左右に勝手にスライド操作してるじゃありませんか!
酷い時は縦に3か所同時にやってる!
こんな同時押ししてたんじゃホームボタンも反応しないわな!

なんじゃこりゃーってなって、なんとなく適当に本体ねじったら直ったwww
試しに違う方向にねじったらまたおかしくなった。

m9(゚д゚)っ ソレダッ!!

でもねじった後普通に使ってたら自然にゆがむのか、またなる。

さすがにこりゃもうどうしようもないので、交換してもらうしかないね。


ってか俺AUなんだけど、通話もしてないのに毎月7,500円は高すぎる。
まあどこもそんなに変わんないよね。

近いうちにMVNOにするわ。mineoとか。

ソフトのインストール時に以下のようなエラーが出ました。

アセンブリ Microsoft.VC80.CRT,type="win32",version="8.0.50727.6195",publickeyToken="1fc8b3b9a18e3b",processorArchitecture="amd64"

他にも困っている人が結構いるようでした。

で、ネットを漁ってみたら、大体は

Microsoft Visual C++ 2005 Redistributable Package (x86)


をいれりゃ直るべさ。
って話になってるんでやってみたけど、これでも直らない。
悪戦苦闘しつつ、エラー内容をよくよくみてみたら、


version="8.0.50727.6195"

あれ、もしかして今入れたのってバージョンちがうんじゃね?
と思って[設定]→[システム]→[
アプリと機能]でインストールしたやつをみてみたら、

X86 9.~(忘れた)

になっておる。
ヤダーバージョン違うじゃないですかああああああwwww

というわけで、

Microsoft Visual C++ 2005 Service Pack 1 再頒布可能パッケージ MFC のセキュリティ更新プログラム


をダウンロードして入れたら、インストールできた!できたよママン!!

ということで、困っている人向けに筆を執った次第でありました。
これでみんなのも直るといいなー。


追記】 2016/4/25

最初のほうに書いたリンク”Microsoft Visual C++ 2005 Redistributable Package (x86)”は海外のもののようで、バージョンは”1”と書いてあった。
バージョン1というのが実際にはどのバージョンに合致するのかは詳細に書いてないからわかんなかったけども、なんか日本には存在しないバージョンっぽい。

これ入れたら直ったーって書いた”
Microsoft Visual C++ 2005 Service Pack 1 再頒布可能パッケージ MFC のセキュリティ更新プログラム”というのはバージョン”8.0.50727.6195”で、自分の場合はこれで直ったけど、日本の最新っぽいのは

Microsoft Visual C++ 2005 SP1 再頒布可能パッケージ (x86)

で、バージョンが
”8.0.50727.762”になってる。
これも詳細情報が書いてないので詳しいことはよくわからんけども、最新だったら違うバージョンのエラーで悩んでいる人の問題も全部解決するかもしれないので試してみてくらさい。

なんかやり取り見てると、焦点が噛み合ってない気がするんだよな。

安倍さんがしたいことは、

1.中国、北朝鮮、韓国などが軍事力を背景に、脅しなど強引な事をしようとしてきている。竹島実効支配、尖閣諸島問題、北朝鮮のミサイルなど。

2.話し合いで解決できれば一番だが、軍事力を盾にされると日本単独では対抗しきれない。

3.そこで、アメリカとの関係を強化しておくとか、その他の国に守ってもらえるようにするため、他国の紛争解決等に対し日本もお金を出すだけではなくて、もっと自衛隊を派遣し国際貢献度を上げる必要がある。

4.つまり他国を守るためというよりは、日本を守ってもらうために集団的自衛権を許可し、有り体にいえば国際社会もしくはアメリカに媚を打っておきたい。

5.憲法に違反するかもしれないが、いますぐにでも脅威に対抗したいので憲法改正でもたついているわけにはいかない。

というところなんだと思う。


それに対して反対派の意見は

・憲法9条に違反する。戦争反対。

・アメリカに擦り寄り

・人の戦争に参加する集団的自衛権を認める意味がわからない。国防なら個人的自衛権で十分。

・新安保法案は戦争ができるようになる、もしくはこれが通ってしまえばずるずると軍国主義化していく

って感じか。


個々にみると反対派の危惧するところはわかるんだけど、じゃあ周辺の国の脅威からどうやって自国を守るのか?ってところはどうなってるんだろうか。
とりあえず何をするにも新安保法案を成立阻止し、話はそれからだ、ということなんだろうか。
それとも今まで通りのスタンスでいいじゃねえかということなんだろうか。


周辺諸国の脅威が上がっているのかどうなのかについて細かいところはよくわからないが、どうも最近日本は押され気味なんじゃないかという印象がある。

核やミサイルなど軍事力を背景に脅しや実効支配などを仕掛けられている現在、こちらも対等くらいの軍事力を持つか、他国の協力を取り付けでもしなければ、押される一方で話し合いをする機会すら持たせてもらえないといったことが起こらない保証はない。

今までどおりのスタンスは、なりふり構わぬ平和の維持のために、大金を払ったり法律の解釈を変えたりなど小手先でいろいろこねくりまわしてきた感じがする。だがそのやり方はもう限界だと思う。


・スイスみたいに中立国になれば他国の戦争にかかわらなくて済む
 かもしれないけど、突然の暴力に対抗できるだけの軍事力もしくは牽制力がなければ簡単に攻めこまれてしまう。軍隊を持ち、徴兵制にする必要があると思うが、憲法改正が必要。通るとは思えない。

・自ら積極的に軍事力を放棄し、国際世論を味方につける
 襲撃されたその時、すぐにどこもかけつけてくれるわけではない。核などを打ち込まれたり占領された後では遅い。

思考の歪みとかその辺のこと。


病的でなくても人間誰しも自分を正当化したりして自分を守るところがあるはず。
元々この傾向は結構強かったけど。

うつになった当時はすごく心が弱くなって、さらに必死になって内にこもってこれ以上傷つかないようにしたと思う。


そうした時に他人はどういうふうに映るかというと、傷つけてくる敵、怖いという見方になる。
ただでさえ自責して自分を傷つけてるので、もうそれ以上はしりぞけたくて仕方ない。

どうやらそれが習慣化して、他人のことを障害物とか敵みたいに認識しているらしい。

怖いとか、どう思われるかとか、人がいれば常に無意識的に体も心も緊張している。
他人の目が怖いってやつだ。


こういうのは薬とかで治すという性質のものじゃなくて、認知療法的に、自分の頭のなかで「人は敵じゃない」と唱え、そして実際に敵じゃないことを味わうことを繰り返していくことで解消されるものだと確信してきた。

薬は、敵じゃないことを実感するために、元気を引き出して行動できるようにする補助薬のようなものって感じに捉え方が変わった。