メリケン粉は主にアメリカから輸入した小麦粉で、国内の製粉技術が劣っていた当時、品質の良いアメリカ産の小麦粉を差別化するためにつけた名称である。敗戦後(1945年)の食糧難を賄うため、GHQ(連合軍総司令部=米国政府が設置した対日占領政策の実施機関)は支援物資としてメリケン粉(小麦粉)などの食糧配給をし、国民はそれを水で溶いて具を入れて焼いたり(洋食焼きのルーツ)、「すいとん」にしたりしていた。50年代以降、西欧諸国の復興は進み食糧事情が改善。ほぼ無傷の戦勝国アメリカは、その豊富な食料事情で世界各国に小麦などの農産物などを輸出していたが、朝鮮戦争の休戦により状況が一変すると大量の余剰を抱えることとなる。その余剰小麦保管などのため米国の国家財政は危機的状況に陥いることになり、改善策として1954年、米国はPL480法(農業貿易促進援助法)を成立させ、発展途上国に余剰農産物を輸出することを決めた。
当時の日本の状況に合わせこれを要約すると「アメリカの農産物(小麦)を円建で購入でき支払は長期後払い」、「その農産物を日本国内で売却消費した場合、その代金の一部が日本の経済復興に使え、米国は米国農産物の市場開拓費に使用できる」、「貧困層への援助、災害救済援助、学校給食への無償贈与」と、表面だけを見れば、日本にとってはただ同然と言えるこの法案であった。そしてサンフランシスコ講和条約締結(1951年)によって、ご都合的独立国家となった日本は、そのために資金援助を打ち切られ財政難に苦しみ、1956年、PL480法に勇んで調印したのである。
すると米国産主要農産物(小麦、大豆、トウモロコシ)の市場拡大のため、日本人の米からパンへの主食転換(小麦粉の消費拡大)、肉、乳製品、卵の摂取の奨励(飼料としてのトウモロコシなどの穀物消費)、油料理の奨励(油脂の原料となる大豆などの消費拡大)といったキャンペーンが、日本国民の栄養改善という大義名分のもとに、市場開拓費を使い繰り広げられた。まずは「米主食では栄養不良になる」というネガティブキャンペーンをはる。そして製パン技術者の講習会を開いたり、キッチンカーが全国を駆け回り、栄養士が欧米型料理の実演指導し、200万人もの国民に栄養改善指導をした。(キッチンカーではメリケン粉とサラダ油(大豆油)によるパンケーキやスパゲティの実演調理も行い、それをフライパン運動と呼んで油調理を勧めたのだ)
 PL480法によるこのようなプロジェクトは数百に及び、学校給食への小麦(パン)の無償贈与などによって、粉食奨励がさらに進み、米から小麦粉食への一大転換が施され、粉モン好きへの道はここから開かれていったのである。PL480法は単なる米国産の余剰農産物の解決だけではなく、米国農産物輸出拡大の一大マーケティング戦略だったわけだ。(結果、今の日本はその大量消費のため小麦、大豆、トウモロコシの9割前後を輸入に頼っている。日本は世界屈指の食糧輸入大国となった。)
この法案による余剰農産物を受け入れは総額600億円に及び、その代金の7割は敗戦復興資金に当てられ(主に電源開発費)、残りは当時の在日米軍の施設拡充と自衛隊整備の資金に充てられた。(戦後の防共戦略の一環として、日米相互防衛援助協定が結ばれ米国は日本に独自の軍備を要求。自衛隊法が1956年公布された)
 それにしても、米国による「日本の粉食化」戦略が自衛隊や電力開発の資金になっていたのは大変興味深く、その影響は昨今の自衛隊問題、電力問題と日本の安全保障上のテーマにもなっていることであり考えさせられるものがある。そして日本の食文化を見つめなおす事実でもある。なにやら話がきな臭くなってしまい、せっかくのおいしい粉モンが焦げては野暮なもの。「日本の粉食化」の功罪はここで論ずるのは止めておく。いつかまた他の場所で(笑)。


画像はフレンチの老舗「マキシム・ド・パリ」が手掛けるワインバー「Cote de Rouge」で限定販売したパンケーキのミルフィーユ。苺のミルフィーユの元祖「銀座マキシム」だけあって遊びでは終わらない。仏産カソナードを入れた生地は粉の味が際立ち噛みしめるほどに旨い。そして、たっぷりのマキシム特製生クリームが非常に似合う。見た目とおいしさに2度驚くスペシャルなパンケーキだ。
※当パンケーキは「ガチで美味しいパンケーキ」に合わせた限定メニューで現在は提供していません。現在メニューにあるパンケーキは「ふわパンケーキ」です。