( * ̄▽ ̄)v- そぞろ歩きもそろそろ終わり。いくつかの路地を巡り、また国道沿いの市営駐車場に戻るまで町並みを眺めました。ここは扇子などのお店で風鈴もあり、軒先の祭提灯にともる明かりがイイ感じでした。


 郡上おどりに「変装ナイト」があるのかぁ。コスプレイヤーさんもいそうですね。ちょっと参加してみたい(笑)


( ;∀;)v- 奇しくも土用の丑の日でした。いい匂いがするんだこれが。お店の鰻ってもう何年ご無沙汰だろう(涙)  ここは開店前だったけどお弁当屋さんが開いてて、軒先に出来立て鰻丼を並べる最中でした。うわ買えねぇ(涙)


 鰻が食べられなくて飛騨牛が食べられるわけがないですキリッ!!  マスク着用の「金の飛騨牛」がめっさイケメン。この下に子供さんが入店待ち中に遊ぶ投げ輪がありましたが、輪を引っかけるのがリアル鹿の角でした。山国あるある。


 これは江戸~大正時代の病院跡。今は文化財指定を受けギャラリーになってますが、建物は大正時代に建てられた洋風建築。城下町でひときわ異彩を放つ近代建築物ですね。


 日本には幕末期に西洋の医療技術が入ってきており、それには伝染病の流行が背景にあったそう。コレラとかかな。大正時代にはレントゲン室も備えた最先端医療の場だったみたい。この場所だけ「たあへるあなとみあ!」な空気が流れてました。


 そこに橋があり海外からの観光客さんが写真や動画を撮りまくってて通るのにひと苦労。ちょうど観光バスが着いたところで、にわかに賑わしくなりました。ふと横を見ると川沿いの小道の奥に「郡上一揆ゆかりの神社まで近道:1分」って道標があり、喧騒を逃れて進んでみました。あ、ここもお稲荷さんなのね。



 左京町稲荷神社とあり、ここに郡上一揆の時の藩主・金森頼錦の弟と言われる金森左京の屋敷があったそう。左京というのは通り名で、金森頼錦は飛騨の名君・金森長近の子孫で本家筋。そちらとは別に金森左京家という分家があったんですね。ここに屋敷があった金森左京の本名は調べてもよく分かりませんでしたが、この人は郡上一揆の際に一揆勢から藩主の金森頼錦へのとりなしを頼まれたとあり、また織田信長の時代からの名家だったので、本家が改易(お家断絶)になっても金森左京家の存続は許されました。資料によっては金森頼錦の弟と書かれてるものがありますが、金森氏の系図では弟にあたる人はおらず、分家の人だったのだろうなと。

(* ̄ー ̄)v- 改易された藩主の金森頼錦は江戸に住んでおり、幕府の奏者番(将軍に謁見する大名の取次役など)という要職に就いてました。文人肌でここで天文観測を行うとかしてたそうですが、出費の多い役職だったのでその皺寄せが藩に来たんすね。郡上藩では延宝年間にも一揆がありましたが、有名なのはその後の宝暦4~8(1974~1978年)に渡る「宝暦騒動」で、こちらを郡上一揆と呼びます。

 郡上藩はもともと石高が多くなかったのですが、金森頼錦はあらゆるものに課税した上に年貢の徴収法をそれまでの定免法(その年の収穫に応じて年貢を決める)から検見法(作付面積に応じて決める)に変えると言い、領民が年貢用とは別に開墾して作っていた切添田畑も厳しく検地して徴収対象にするとした。これに領民は激しく反発し、まずは郡上八幡城に集団で強訴します。

 それでも埒が開かないので、郡上藩一帯の村々の代表者が誰が首謀者か分からないように唐笠連判状に名を連ね、何人かが江戸に出向いて幕府の目安箱への訴状の投函(箱訴)、要人の乗る駕籠に訴状を差し出す駕籠訴を行う。これは罪ではなく幕府が目を通す手続きではありましたが、藩主にとっては非常に体面が悪いことで、訴人は牢に入れられたり、ろくな調べもせず処刑されたりする。これに怒った領民が一揆勢になりました。

(* ̄ー ̄)v- 4年間も続くといろいろあり、初めは比較的裕福な層が一揆勢を率いていたのが藩に懐柔されるようになり、後半は貧しい層が中心になっていたそう。最終的には時の将軍・徳川家重が「幕府の要人が関わっている」と考えるようになり、その意を受けた田沼意次の采配で藩主の金森氏の改易、かつ一揆勢の主だった者の処分という「両成敗」で決着しました。一揆勢からは4人の獄門(ひとりは牢死)と大勢の追放者が出て、その人々が「義民」として郡上おどりで語り継がれてます。踊り唄の「やっちく」等が宝暦騒動の顛末を語るものですね。


 郡上一揆は一揆勢の要求がある程度通った稀有な一揆で、次に藩主になった青山氏は年貢徴収は検見法でしたが領民にはよく配慮して受け入れられたそう。またこれを機に幕府要人を何人も罷免した田沼意次は米作よりも商業活動を重視したため、幕府の政策の転換点になった一揆とも言われます。「米作は気候によって収穫が左右されるからもう古い」って事かな。昔は老中・田沼意次と言えば賄賂の代名詞でしたが、当人は賄賂浸けではなく、彼の奨励した商業主義が「黄金色のお菓子」が横行する下地を作ったのだとか。何事にも良い面とアカン面がありますなぁ。

 ああここもいい景色だな。橋の隣に水路があり、その下にも川に注ぐ水路がある。岐阜県には他にも飛騨古川などにもこうした「水の町」があります。夏の昼間は暑いけど、見た目にはとても涼しそう。


 これは桜町という地区の桝形の跡。中山道の宿場町にもあるもので、攻め手の軍勢がスムーズに駆け抜けられないように道を狭くしたり急カーブを設けています。山城でも珍しくないもので、城下町だと番所(関所)もあったのですね。


 日程表と共に掲げられていた郡上おどりの盛況ぶり。これは「徹夜おどり」の写真じゃないかと思いますが、身の置き場もないみっちみちの盆踊りです。これに毎年行く同僚は「夜明けまで踊り続けて、明るくなってきた時に周りの人とおはようございますと言い交わすのが醍醐味」と語ります。体力あるわ・・・・・・・・・


 そして小野八幡神社(小野天満宮)。これが郡上八幡の名の由来になってる神社です。祭神は誉田別命(応神天皇)と菅原道真。神体は1mの白石に天神さまの姿が浮き出してるもので、金森頼錦が奉納したものだそう。何も考えずに勘で歩いてましたが、けっこう良いスポットに行けた気がします。あとは良い風情のお寺があるようで、それは今後の課題すね。


 雨は止んで、だんだん雲が晴れて青空も見えるようになってきてました。今日は家族で郡上八幡を通りすぎましたが、晴天でも異常に暑かったです。吉田川で泳ぐ人もいたろうなぁ。


 また川に下りて遊歩道を引き返し。ここににも洗い場があり、水神が祀られてました。


 来た時に見た鮎釣りの人がまだ頑張ってた。たくさん釣れたかな? お疲れさまと思いつつ、また市営駐車場に戻って帰途につきました。