( * ̄▽ ̄)v- この日は常設展示の内容が濃かったのでなかなか2階に行けない(笑)  これは近代の関鍛冶が明治の廃刀令をどう乗り切ったかの解説です。室町時代に最盛期を迎えた関の刀鍛冶は江戸時代に入ると刀の需要が減ったため、衰退の危機を迎えました。


 もとから刀以外の刃物も生産しており、刀鍛冶とは別の鍬や鋤といった農具を作る鍛冶工房もありましたが、刀鍛冶の方は転業するか廃業する工房が多くなりました。少なくなった販路を公平に分け合うための組合を作り刀鍛冶も頑張っていましたが、武士(藩士)も帯刀を禁じられた明治の廃刀令は大打撃でした。



 関の刀鍛冶は七つの流派に分かれていましたが、そのひとつの善定派の刀匠が明治40年に私財を投じてここに「日本刀鍛錬所」を作り技術の保護の場にしました。それが各地から刀匠の修業をする人を集める場所になり、現代刀が作られるようになる。戦時中には大量生産の「昭和刀」がよく作られましたがこれは機械による作刀で、ステンレス製の刀も初めて作られました。↓こちらはもう故人ですが二十七代目の兼元の刀。ここにあった日本刀鍛錬塾の塾長で、号は孫六。「関の孫六兼元」は現代まで受け継がれてるんすね。


 これは初代関藩主・大嶋光義(雲八)の鎧。弓の名手で織田信長に取り立てられ関市の迫間城主になった人です。


 とても長生きで生涯現役で、90代で関ヶ原の戦いまで出ていたそう。ご子孫は大阪にいるのですね。大嶋氏は川辺町まで領地があり、八坂山城がそうじゃなかったかな? 織田信長の美濃攻略から関ヶ原の戦いまで現役ってすげぇ。関市は「長く保つこと」に長けた土地柄だと思います。


 奥には現代の関の刀匠の写真とその刀。現代の刀匠は全国で300人ほどで、関市を含む岐阜県を拠点にしているのは10人だそう。刀匠になるには師匠の元で5年以上勤め、国が行う実地研修を修了しないといけないそうで、国家資格です。独り立ちするのはとても大変で、作刀だけで生計を立てられる人は僅かなんですって。伝統工芸の世界は厳しいすね。


 ひときわ大きく美しいのは「蛍丸」の写し。肥後国一の宮の阿蘇神社の神宝で、太平洋戦争の混乱で所在不明になってしまった国宝です。進駐軍に海洋投棄されたとも軍人が持ち去ったとも、未だにどこかの倉庫に眠っているとも諸説ありますが、その「蛍丸」をクラウドファンディングで費用を募り再現したものです。


 本物は鎌倉時代に山城国の来国俊が打ったとされる大太刀で、今も阿蘇神社の大宮司をつとめる阿蘇氏の武将の刀だったそう。名の由来は刃こぼれした時に欠けた部分が蛍のように光りながら寄り集まって自己修復したという言い伝えから。とても美しい伝説ですね。復元は関市と大分県の刀匠が共同で行い、三振り作っていちばん良いものを阿蘇神社に奉納し、ひと振りはこの関鍛冶伝承館に。もうひと振りはクラウドファンディングの最高金額寄付者に寄贈されたそう。「刀剣乱舞」の制作会社だったかな?  ちなみに今は分からないけど、関市のふるさと納税の返礼品には日本刀もありました。(100万円以上寄付しないといけないみたいだけど)


 刀身に「八幡大菩薩」の文字があり、銘も本物の復元なので来国俊。山城国の来(らい)派の開祖の子で、鎌倉時代後期の有名な刀匠です。名の響きが綺麗で、何かで知ってスッと頭に入りました。


 蛍丸の復元に携わった刀匠の藤原房幸氏。刀匠の名乗りには圧倒的に藤原姓が多く、それが不思議でしたが江戸時代からそうした名乗りが増えたそう。日本では源平藤橘(源・平・藤原・橘)という姓は朝廷からよく賜る受領名で、刀匠では藤原がすごく多い。江戸時代に徳川家康が京都の伊賀守金道という刀匠に大量の刀を作らせて、とても1人では打てないので伝手をたどって大勢の刀匠と手分けして依頼に応えたら「日本の鍛冶の惣領」って称号を与えられたのが始まりとされ、刀匠は箔付けのためにこの伊賀守金道を通して受領名を賜ることが多くなったとか。

( * ̄▽ ̄)v- 和泉守兼定のような「〇〇守」は普通は領地を治める武将のものですが、それを職能集団も使えたんすね。もちろん官位や受領名はお金と引き換えですが、武将のお抱えの刀匠だったりするとスポンサーとしてそれが叶う。職能集団が〇〇天皇の綸旨や神仏の証書を持つとかはマタギや木地師にも珍しくなく、お商売をするからには「後ろ楯」とか「箔」が重視されたんすね。


( * ̄▽ ̄)v- 刀匠の写真はどれもこういう小槌を振り上げた姿で、これぞ刀匠ってポーズなんでしょうね。助手がもう少し大きな槌で補助してますが、こうして下積みして刀匠になるのだと思います。

 そして関鍛冶の始祖の刀も見られました。刀祖とも称されますが、関鍛冶の始まりは伯耆国出身の元重という刀匠と、その子の金重というのが定説のよう。まず元重は室町時代に編纂された美濃鍛冶の系図の筆頭にその名があるからですが、元重の銘が入った刀が長らく見つからず、実在したのか?とも思われてました。

 それが近年に静岡県の個人蔵の刀に元重の銘が入ったものが見つかり、ひょっとしたら同名の別人かもしれませんが初代元重の活動期の鎌倉~南北朝時代の太刀なので間違いなかろうと関市が購入したのが多分これ↓  鞘の拵えが典雅ですね。鎌倉時代は刀は騎馬武者が使う事が多かったので、馬上で抜きやすいように刀身も装具も誂えられてます。


 もう1人の刀祖は金重。初代元重の子で大和から美濃に移り住んだ刀匠と言われます。この金重が大和から娘婿の兼永を関に呼び寄せ、その子孫から関の刀鍛冶の七流派が生まれたそう。関鍛冶の基盤が大和鍛冶というのはこれに依ります。南北朝時代の刀ですが古びないようにどのくらいの間隔で研ぐんだろう? 出来たばかりの新品みたいですねぇ。


( * ̄▽ ̄)v- そして室町時代の関鍛冶の双璧・孫六兼元と和泉守兼定の太刀。戦国時代は騎馬武者向けでなく地上での使い回しの良さが重視され、刀身の反りは先端に入ってます。「関鍛冶の刀は折れず曲がらずよく切れる」と称えられた最盛期の刀すね。


 孫六兼元の切れ味は「敵だと思って斬ったら地蔵だった」とか「斬られた人間が念仏を二回唱えてから絶命した」とか、もはや伝説の域。現役で武器だった時代の刀すね。


 孫六兼元と同時代の和泉守兼定。兼元もそうですが和泉守兼定も同名の刀匠が複数おり、やはり二代目が名匠だったそう。武田信虎や明智光秀が使っていたとありますが、ちょっと引いたのは「細川忠興が家臣36人を手討ちにした」で、6人説もあるけど1本の刀で可能なのかと小一時間。剣豪将軍と呼ばれる足利義輝も、襲撃された時は秘蔵の刀を畳に突き立てて取り替えながら応戦したと伝わりますよね。刀は人を斬ると脂ですぐに切れなくなると言いますが、脂さえ付着させない切れ味だったのかなぁ。


( * ̄▽ ̄)v- そうした逸話もまことしやかに囁かれた「箔付け」なのでしょうね。 それが風評被害まで行ってしまったのが伊勢の村正で、「徳川家に祟る」とか「魅入られて人を斬らずにおれなくなる」という妖刀伝説になりました。何かあったなぁ。横死した築山殿と松平信康の呪いが村正の刀にこもり、持つ者は殺戮と若い女を求めるって劇画が。村正の刀は確かに凄艶で、その凄みのある美しさが妖刀伝説のもとになったそうです。現物を見てみたいすねぇ。

( * ̄▽ ̄)v- あ、ここにも刀身に龍の彫刻が。これは燃える剣に龍が巻きつく意匠で、不動明王が持つ倶利伽羅剣を表しているのだそう。煩悩を断つ剣で、それ自体を不動明王と見たり龍王信仰のしるしだったりします。


 これを彫るのは刀匠でなく彫金職人さんかも。刀身に彫るのは細心の注意が要りそうですね。これが刀を唯一無二のものにするんですな、美しいなぁと思いました。