( * ̄▽ ̄)v- 次は鞘師。刀身を納める鞘は緻密でひび割れしにくく細工しやすいので朴の木がよく使われたそう。成型して鉋をかけて仕上げられ、これに塗りや装具が加わるんですね。



 鞘に漆を塗るのは塗師のお仕事。漆塗りは漆器もそうですが防水効果があり、鉄の刀身を湿気から守る役割もありました。赤漆や黒漆を何度も重ね塗りして仕上げるものですが、鞘にサメの皮を巻いてから漆を塗る技法もあったそう。単に漆塗りだけでなく螺鈿をちりばめたり蒔絵で彩るものも多く、見た目の美しさを引き立てました。


( * ̄▽ ̄)v- これは明治時代の短刀ですが、鞘に施された螺鈿細工がとてもお洒落。こういうのは何となく欲しくなりますね。文房具として。


 そして刀匠と並ぶ花形は研師。打ち上がった新しい刀の研磨だけでなく、古い刀の研ぎ直しもお仕事です。新しい刀だと研ぐ前はまだ刃に鋭い輝きは無く、研ぐことで刀身が澄み刃に刃文が顕れる。刀身の総仕上げなんですね。


(; ̄ー ̄)v- ・・・そう言えば家の包丁もずいぶん研いでないなと思うわたくし。利用者さん宅で調理する時、たまにものすごくよく切れる良い包丁があるんですよね。けっこうな出血をした事がある。そういうのは包丁じたいが良い物で、ちゃんとお手入れされている。砥石も種類がすごく多いのね。 


 調べてみたら天然砥石の産地で有名なのは京都だそう。研磨する鉱物は主に石英で、その粒の大きさで用途が分かれるそうです。今は天然砥石はとても少なく人工のものが主流だそうですが、やはり最上は天然砥石なのだとか。刀研ぎでは何種類もの砥石を使い分け、和紙や綿に椿油や打ち粉を沁みさせたもので仕上げます。いかに刃文を美しく際立たせ、刀じたいの品性を高めるかは研師の技量にかかってます。物凄い精密作業なんですね。


 これは鍔。彫金の技術が光る鍔師のお仕事で、干支にあやかって龍の意匠のものが展示されてました。ここまで来ると美術品ですなぁ。


 ルーペでよく見えるようになってました。こんなん人目にあんまり触れない箇所なのに凝ってますねぇ。好みの意匠を依頼できたのかな? 神は細部に宿ると言いますが、見えないところに凝る美学だなと。


 刀身に彫刻が入った凝った刀。これは別の鉄で作った細工を焼きつけたのかな? 凄いなぁ・・・


( ; ̄▽ ̄)v- かと思えば刀身に和歌が彫り込まれた刀まで。タイムリーな大河ドラマネタですが、細工が細かすぎて溜め息しか出ない。


 昭和初期の作との事ですが、何のために刀に和歌を彫り込んだんだろう。奉納刀だろうか? 検索するとけっこう沢山ありました。


 これは鍛冶神図。中央に立つのが三面六臂の三宝荒神で、仏法僧を守護する神仏習合の佛神ですが、不浄を嫌うので竈神として台所によく祀られます。火を使い不純物を忌むので鍛冶業でも奉られたんですね。


 図では三宝荒神の前で刀匠が小槌をふるい、向かい合わせには鬼が大槌を振るってます。鬼の正体には製鉄民説がありますが、それを想起しますね。製鉄は大陸から渡来した技術であり初期は人里離れた山奥で行われてたから、里民から見れば鬼だったと。赤ら顔なのは火に顔を近づける仕事だったからとも。同じように火花で片目を失明しやすかったから、一つ目小僧にも製鉄民説があります。(山の神につけられた目印説もあり)   この掛軸はふいご祭りの時に飾られたとあり、ふいご等の仕事道具に感謝する日に掲げられたそう。今はどちらかと言えば神道ですが、もともとは神仏習合のカミを奉じてたんですね。


 近代の刃物もたくさん展示されていて、軍隊由来のものもあります。もう骨董品ですねこれ。初期のポケットナイフはちょっとデカかったすね。刃物にも歴史あり。


(* ̄O ̄)v- おお、関の孫六。この日は常設展示でも特設展示でも歴代の「兼元」の刀が展示されており、室町時代の名匠の作をじっくり観賞できました。


 よく言われる「関の孫六」は二代目の孫六兼元で、初代から何人もの「兼元」がいました。2階の特設展示でも紹介されてたのは戦国時代に活躍した刀匠だからで、関の刀鍛冶のブランド名だったからですね。関市は街道もあるし適度に山あいで、織田信長の時代だと明らかに比叡山や石山本願寺を意識した刀の生産地だったろうなぁと。大名なみの兵力持ってましたからねぇ。


 初めは刀剣の査定、のちに焼き物や書画の鑑定やランク付けで有名だったのが京都の本阿弥家ですが、関の兼元の刀には最高ランクの「最上大業物」の称号が与えられてます。あー書いてある。もう合戦がなくなった江戸時代の刀の査定って、処刑された罪人の死体を使った試し切りなんすよね。その御様(おためし)御用を務めていたのが山田浅右衛門。いわゆる「首切り浅右衛門」で、明治時代まで続いた処刑人(介錯人)の一族でした。

(* ̄ー ̄)v- 公儀のお役人ですが御家人や旗本ではなく、扱いは浪人。斬首には技量が要るので必ずしも実子に継がせるのでなく優秀な者に世襲名を継がせてました。試し切りによる刀の査定も収入源で、死体そのものを売買する権利も持っていた。財は刑死者の供養に惜しみなく使ったそうで、太平の世の刀の査定とは酷いものだったとしか言いようが。「最上大業物」の格付けは名誉だけど、切ってるよね絶対。そこは複雑。


 これは歴代兼元の刀の比較。刃文は三本杉と呼ばれるものですが、刀匠によって細かい違いが見てとれます。鑑定士は刃文で流派が分かるそうで、そればかりは研鑽を積まないと無理ですね。私には良し悪しは分からないなぁ、ただ綺麗だなと感じるのみで(涙)


 興味深い展示があり、「関の兼元」の刀が歴史上の大事件で使われたのだとか。どちらがどちらだったかな? 桜田門外の変で大老・井伊直政を襲撃した刀と、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫を介錯した刀が兼元の作だったそう。三島由紀夫の介錯はけっこう無惨なものだったそうですが、兼元の刀だったのか。五か伝と言われる刀の名産地・製法で関の美濃伝はいちばん遅くに成立したもので、なので近代までよく流通したんですね。常設展示でもその時々によって企画コーナーがありますが、この日はここでしばし茫然としましたね。