番組では現在の陸上自衛隊青森駐屯地にも訪れてました。今は第9師団の管轄で、北東北三県(青森・秋田・宮城県)の防衛や災害支援活動をされてるんですね。かつての歩兵第5連隊は普通科第5連隊となり、今も「第5」を継承しているのだそうです。



(* ̄O ̄)v- うわーーーパンツァー。74式戦車と言うからには1974年に開発されたのかな。名古屋の守山駐屯地は第10師団で、戦車に金のシャチホコがついてます。ケンミンショーでは偉い人のカフスボタンとかも金鯱で、「もう付ける所がありませんキリッ!!」でした。戦車はもう90年代式が主流だそうですが、ここではまだ74式が現役なんですって。漢のロマンですなぁ。


 こちらで案内して下さったのは元自衛官の伊藤薫氏。やすこなら肩章で階級が言えると思う。この方も八甲田雪中行軍遭難事件についての著書を出されていて、検索して概要を見たら元自衛官にしては攻めた内容でした。第5連隊の遭難はあまりにも大規模だったので陰謀論みたいなのも囁かれてて、厳冬季の人体実験説まであるくらい。ロシアのディアトロフ峠事件みたいな捉え方があるのも散見しました。


 八甲田山系最高峰の大岳頂上に立つ伊藤氏。気象予報士の大矢康裕氏も秋に登ったそうですが、雪はなくても強風が凄かったそう。高さだけなら私でも行けるけど、アプローチは長そうですね。


 これは青森駐屯地内にある防衛館。明治時代に建てられたものを活用してて、ここに八甲田雪中行軍遭難事件の資料が展示されてました。現地にも幸畑軍人墓地のそばに資料館があり、2ヶ所に資料館があると初めて知りました。

 刮目すべきは遭難始末の初版。初版は捜索活動が終わり慰霊祭に合わせた1902年7月23日に出版され、改定を重ねながら何度か刊行されたそうです。今はネットでも読めるようになっているのだとか。

(* ̄ー ̄)v- 遭難事件は海外まで大きく報道されましたが、国内の反応は「戦闘でなく訓練でそんなに死なせたのか?」というものが多く、軍のイメージが悪くなり徴兵逃れも増えたそう。そうなると分かっていたからか「美談集」も付けられて、上官を最後まで守ろうとした兵卒のエピソードが喧伝されました。実際 そういう見つかり方をされた一等卒や二等卒のご遺体があったそうです。ゴールデンカムイで初めて知ったけど、一等兵・二等兵という呼び方はもっと後からだったんですね。その上が伍長や軍曹や特務曹長、さらに尉官から佐官。その上に少将~なのだなぁ。この隊では山口少佐が階級がいちばん上でした。


 捜索の様子。初日は捜索隊も暴風雪に遇い遭難しかけたそう。ゴールデンカムイではアイヌの有古さんが捜索隊に加わったと描かれてた。初めは木の棒で雪を探っていたけど折れるので鉄の棒に変えたとか。瀕死で発見された山口少佐に気付け薬を注射しようとすると針が折れたとあり、人の体ももう凍ってたんですね。


 病院に収容され回復した生存者。17名助かったけれども山口少佐を含めて病院で6名亡くなり、残った11名のうち7名は両手両足もしくは片腕片足を切断しなければならなかったそう。山口少佐につき従っていた倉石大尉という方は連隊でただ1人ゴム長靴を履いていて、凍傷にかからずに済みました。たまたま東京で購入したゴム長靴を履いてきており、当時はまだレアでした。

(* ̄ー ̄)v- いちばん最初に亡くなった水野中尉は旧新宮藩主の令息で、実家から防寒着を送られそれを重ね着していたものの、足元は靴下の3枚重ねに直に藁靴を履いていた。足元からの冷えは恐ろしいのですね。遭難しなかった弘前第31連隊も藁靴でしたが、「藁は2年物が望ましい」など防寒に務めていました。


 最終的に残った11名。最初に発見された後藤伍長は四肢切断といういたましい姿になりましたが除隊して地元の宮城県の村議になったそう。宮城県出身者は48人で、後藤伍長とあと1人だけ生還しましたがその方は病院で亡くなりました。後藤伍長の息子さんはあのインパール作戦に従軍し生還されたそう。すごい血脈だなとしか言いようがない。
 資料館で展示されていた当時の肌着。木綿製で、下士官や兵卒はこれを軍袴の下に履いてました。保温性や速乾性は無く、雪や汗で濡れたら体に貼りついてますます体温を奪ったろうと説明されました。着替えができず、濡れた服を乾かす事もできなければ「未曾有の大寒波」でなくても低体温症は避けられなかったんですね。


 現在の普通科第5連隊の八甲田演習。遭難した明治時代の第5連隊の追悼も含めて毎年その時期にやっているそう。まずは幸畑の軍人墓地を参拝してほぼ同じルートを行軍するんですって。白いウェアは追悼だからかと思ったら、雪上の迷彩服なのですね。しっかりした防寒服になってます。


 毛糸の肌着シャツを支給されるけど、伊藤氏は先輩の自衛官から「裏返しにして着た方がいい」と伝えられたとか。起毛してる表側を内側にすると、汗をかいても体に貼りつかないんですって。ちょっと試してみたいなぁ。


 いつ頃のロケなんだろう。雪が降る中を馬立場の後藤伍長の像まで先導する伊藤氏。今は県道のそばのようですが、私はここを独りで進む度胸はないな・・・・・・・


 雪に埋もれて立っていたと言われる後藤伍長の像。太平洋戦争の時も金属供出の対象にはされなかったとか。実際に見つかった場所は少し離れたところだそうです。


 目的地の田代新湯がここから見えるそう。けれども雪が降ってると全然見えない。


 夏だとこう見える。ああ美しいところだなぁ、ここが「雪の地獄」になったんだ・・・・・・


 弘前第31連隊は弘前駐屯地から八甲田山を経て青森駐屯地~弘前に戻るという全長224kmの行程で、11泊12日の予定でした。それに比べると往復40kmほどで1泊2日の予定だった第5連隊の遭難は「なぜ?」が強い。けれども弘前連隊は総勢38名で青森県出身者も多く、全行程で地元の案内人を雇い、殆どの宿泊先を民家に頼んでたんですね。藁靴など防寒具の補給もあった。そちらの指揮官は雪中行軍の経験があり、第5連隊にはそれがなかった。弘前連隊も帰営した時にはフラフラだったという地元民の証言がありますが、2つの連隊を分けたものは大きかったすね。

 そもそも第5連隊の雪中行軍は出発直前に決まったもので、まず220名もの大所帯を冬山に送り出す意味が分かっていなかったかも。

 案内人を探す余裕もなかったとされますが、道中で早くに「行かない方がいい」と地元民に助言されてたんですね。どうしても行くなら案内すると言われたのも却下してしまった。地元民の肌感覚を軽視したのは大きく、遭難しなかった弘前連隊がいる以上 「認識の甘さ」 は紛れもなくありましたね。


 案内人がいれば。そして装備がきちんとしていれば少なくとも大勢が生還できたはずだと伊藤氏は語っておられました。これは雪山でない低山しか行かない私にも響くものがありました。

 恐らく第5連隊はホワイトアウトの中で円形彷徨(リングワンダリング)に陥った。目印になる木や建物がない雪原で視界が閉ざされると、人は同じ場所をグルグル回るそう。歩行が利き脚に偏って円を描くように進むもので、延々と同じ場所をさまよってしまう。その間に低体温症が進行したんでしょうね。恐ろしい事です。


 八甲田山は心霊マニアの間では「不敬冒すべからず」の筆頭に挙がる場所ですが、遭難事件の直後から「行軍する姿を見た」「助けを呼ぶ声を聞いた」という話はあったそうです。いつか訪れてみたい場所ではありますが、冬は避けたいですね。