積雪期の八甲田山とその周辺。美しいところですね。晴天で強風が吹かなければ良いスノートレッキングの場になりそう。第5連隊はこの山群のふもとの雪原を進んでおよそ20km先の田代新湯を目指しました。

 これは1月26日から始まった捜索・救助活動の様子。第5連隊が25日になっても田代新湯に着かないので捜索隊が出ましたが、無線機は無かったのですね。あればもっと早くに救助要請できた筈で、青森駐屯地を出発して3日目になるこの日には死者・行方不明者が既に70名に達していたそうです。捜索には青森駐屯地の残りの歩兵第5連隊、弘前連隊、仙台砲兵隊の他、初動から北海道のアイヌの人々が携わったそう。けれども初日は暴風雪に阻まれたのだとか。

(* ̄ー ̄)v- 逆のルートから踏破した弘前第31連隊は2人の遺体と小銃2丁を見つけ、小銃を持ち帰ったそう。こちらの隊の方が長距離の行軍でしたが第5連隊の遭難を知り青森からは列車で帰営したのだとか。こちらも兵士1人が凍傷にかかり、地元の案内人7人も酷い凍傷に冒されましたが軍からの補償は無かったそう。そこは映画「八甲田山」とは違いますね。渡哲也さん演じる連隊長は案内人に敬意を表してました。


捜索隊は馬立場付近で立ったまま雪に埋もれ、仮死状態になっていた後藤房之助伍長を最初に発見。この人は分隊して青森駐屯地を目指した隊がさらにまた2つに分かれた時に指揮官の神成大尉につき従った数名のひとりで、神成大尉より「案内人を連れて来るように」と命じられて単独で引き返してきた人でした。この人の発見で第5連隊の遭難が判明し、その後続々と遺体や生存者が見つかったのですね。生存者は17名でしたが救助後に6人亡くなり、指揮官の神成大尉はもう亡くなっていて、大隊長の山口少佐は病院で亡くなりました。

(* ̄ー ̄)v-  山口少佐と神成大尉は途中から別のルートで青森駐屯地を目指しており、前者は数名、後者は20人ほど。目的地だった田代新湯に向かった隊もいるので大まかに3つのグループに分かれていて、もう完全に連隊ではなくなった。現代の山の大量遭難もグループが離ればなれになって力尽きる事が多いけど、八甲田雪中行軍の遭難事件は規模が大きすぎました。生還した山口少佐が病院に収容されてすぐに亡くなったことが「陸軍による隠蔽ではないのか」と囁かれたのは無理なかったよう。拳銃で自決したとも言われますが、凍傷が酷くてそれは無理だったみたいです。

 後にまとめられた報告書の「遭難始末」では、その原因は「未曾有の大寒波」とされました。確かにその時期に北海道の旭川で史上最低気温の-40℃が観測されたんすね。けれども気象の専門家によると、北海道の低温と青森県の低温は少し性質が違うそう。前者は内陸部の放射冷却で、後者は三陸沖の高気圧やJPCZ(日本海寒気団収束帯/線上降雪帯)に依るのだとか。そして今年の6月にヤマケイオンラインに気象予報士の大矢康裕氏が明治35年1月23日周辺の気象データを基にした「第5連隊遭難の真実」を発表しました。

 基にした気象データ(再解析データ)は米国のNOAA(アメリカ海洋大気庁)によるもので、これは日本の気象庁にあたるそう。


(* ̄ー ̄)v- 何でも天保7年(1836年)まで遡る気象データを無料公開してるそうで、すげーな米国。何でよその国のそんな古い気象データ持ってますのん。

 日本の気象庁だと昭和33年までしか遡れないみたい。今でこそ週間予報や月間予報が普通にありますが、明治35年ではまだ無理だったんですね。

 第5連隊が青森駐屯地を出発した1月23日の朝6:55の気温は-6℃で、晴天で風も強くなかったそう。これは当時の青森県では例年通りの気温なのだそう。
 

 しかしこれは疑似晴天と呼ばれるもので、出発から2時間経つ頃には日本海側から気圧の谷と線上降雪帯が流れ込み、三陸沖に高気圧が発生する。出発の前日~前々日には緩んでいた冬型の気圧配置がだんだん強まってきてました。

 第5連隊の生存者は「1月23日の11:30頃から風が強くなった」と証言していた。この時に駐屯地に戻るかどうかの協議があったそうで、そこで引き返していれば全員無事だったでしょうが、出発したばかりでまだ暴風雪になっていなかった。ちょうど青森県の上空では等圧線の間隔が細く狭まってきて、これは強い風が吹くことを表すそうです。


 既に23日の夜から暴風雪になっていましたが、それは翌日も変わらなかった。強い冬型の気圧配置が上空に居座り、24日の深夜に行軍を続けていた第5連隊は容赦なくその影響にさらされる。ならば「遭難始末」に-25℃まで下がったと記された気温はどうだったんだろう?


 米国のNOAAのデータでは23日の21時には-12℃。生存者が証言した-20℃とはずいぶん違います。


(* ̄ー ̄)v- 連隊では衛生兵が気温を記録する事になってましたが、気温計が手に凍りついたまま亡くなっていたので正確な記録は残らなかったそう。報告書に記載されたのは生存者の体感気温だろうとの事です。出発した初日の晩から暴風雪に遇い、濡れた服や藁靴のままなら実際の気温よりはるかに寒く感じたのでしょうね。 


 青森市内の歴代最低気温の一覧。うちの県だと全国最高気温ランキングにいくつの市町村が入るかって目で見ますが、最低気温ランキングなんて見るだけでも寒い。ケンミンショーで青森県以外の東北の方々が「青森はもっと寒いんだからこれしきで弱音は吐けません!」とおっしゃっていたのはこれだからか。市内での歴代最低気温は -24.7℃。冬山は標高1000m上がると6℃下がると聞くから、市内でこれなら八甲田山は最大-30℃行くのでは。しかしNOAAのデータの「23日21時-12℃」はピンポイントで八甲田山の気温なので、市内の最低気温のランキング外。


「-12℃というのはこの辺りではごく普通の気温です」と語る大矢氏。うちの方から見れば耐えられる気がしない寒さですが、そういうものなのか。東北の人が我慢強いと言われるのはこれだからなのですね。

 気温は青森市内でも珍しくない程度だった。これまで言われていた「未曾有の寒波」 ではなかったのですね。あとは暴風雪と備えの不十分さしかなく、とくに冬山に行かれる方ならもう説明は要らないくらい。冬山登山をしない方でもああそうだよな・・・と思いを致せる内容でした。