(* ̄ー ̄)v- 昨夜の「世界の何だコレミステリーSP」は4時間の拡大版で、まず刮目したのは↓これの続報。兵庫県宍粟市で2001年に捕獲され間もなく死亡したツチノコがミイラになって保管されていて、それを既知の生き物のDNAのデータベースと照合したところ、似ている上位4位までが「蛾」だったそうで・・・・・・・何故? こんなにあからさまに爬虫類なのに何故なんだぜ?



 (* ̄ー ̄)v- ツチノコで憮然とした後の刮目特集は八甲田雪中行軍遭難事件。これは子供の時に家族で映画を観に行った時に流れた「八甲田山」の劇場予告がトラウマものでした。「天は我らを見放した」がキャッチコピーになってましたね。低体温症からの錯乱に陥った兵士が矛盾脱衣を起こし、雪の中で褌一丁になって絶叫する場面は子供には衝撃でした。

 概要はWikipediaなどに詳しく載ってますが、1902年(明治35年)1月に八甲田山で起こった大量遭難事件。日清戦争で寒冷地での戦闘に苦労した陸軍がロシアの侵攻に備えるためにさらに厳寒の八甲田山で物資運搬訓練をしようとしたところ、青森県に駐屯していた第8師団に属する歩兵第5連隊210名中199名が死亡(うち6名は救助後に死亡)という大惨事になりました。

 同時期に同じ青森県の弘前歩兵第31連隊も逆のルートで行軍していましたが、そちらは遭難する事なく無事に踏破していた。第5連隊の遭難の原因は生還者の証言から「未曾有の大寒波によるもの」と結論づけられましたが、早くから「冬山への認識不足」「地元の案内人をつけていなかった」「指揮系統の混乱」は指摘されてました。無事に踏破した弘前31連隊はもっと少人数で、冬山への備えをしていたんすね。悲惨な結末を迎えた第5連隊は心霊マニアの間ではエヴェレスト級の畏怖を抱かれ、真っ黒な顔をした兵士に取り囲まれて「俺はこいつの右腕が欲しい」「俺は左足が欲しい」などと囁かれるとか、未だに行軍しているとか、無人の別荘から119番通報が来たとか怪談話も多いです。

(* ̄ー ̄)v- しかし今年の6月に、いちばんの原因とされた「未曾有の大寒波」はそこまでではなかったという事実が明らかになりました。これは山岳誌の老舗「山と渓谷」に発表されたのが最初になるのかな。気象予報士でもある登山家が米国の気象データバンクから当時の青森県の気象図を見つけ、それを分析されてました。
 
 
 第5連隊は1902年の1月23日の6:55に青森駐屯地を出発。八甲田山は独立峰ではなく主峰の大岳(1585m)を含む山群で、子供の頃はもっと高い山だと思ってました。そこで恐ろしいのは高さでなく気候条件なのですね。


 行程は小峠から馬立場というポイントを経て田代新湯という温泉をゴールとするもので、1泊2日の予定だったそう。2~3日前に少人数で下見をしたそうですが全行程は行っておらず、隊に全部踏破した経験者はいなかった。連隊は主に宮城県と岩手県出身者で構成されていて、雪国ではありますが雪の質が青森県とは違ったのだそう。宮城県や岩手県では雪質に湿気が多く、青森県ではやや乾いたサラサラした雪質で、厳冬季は世界有数の豪雪地帯となる八甲田山の予備知識は無かったと言われます。行軍訓練は1台85kgの橇に食料や燃料を積んで引き、銃剣を携えた兵士が片道20kmを進むというもので、出発した時は晴天で風も強くなかったそう。
 しかし11:30に小峠に到達したあたりから風が強くなり、ここで引き返すかどうかちょっと検討したそう。しかし途中で地元民が「行かない方がいい。どうしても行くなら案内人を出す」と助言したのを断っており、下士官も進むという意見だったのでそのまま進んだ。土地勘はなく地図とコンパスのみの行軍で、そこは案内人を立てた弘前連隊とは違いました。

 重い橇は4人の兵士が引いていて、だんだん遅れ始めた。風雪は徐々に強くなり、指揮官は橇隊にサポート要員を送ったり行く手に先遣隊を出したりしますが日程は大幅に遅れ、行程の2/3程の馬立場に着いた時には16時を回っていました。


 本来ならもう田代新湯に着く頃でしたがあと少しの地点で日没になり、風雪も強くなって視界が閉ざされた。指揮官はこのまま進むことを選択しますが、頼りのコンパスは凍りついて使えず勘で進むことになる。紙の地図はあってもホワイトアウトで使いものになりませんでした。
 生存者の小原伍長の証言。後の報告書の「遭難始末」は大半がこの方の証言をもとに作られました。夜間行軍は深夜まで続きましたが、斥候を出しても目的地の田代新湯は見つからず、この先遣隊は引き返してほとんど偶然に本隊に合流。もう1度斥候が出ましたが目的地を見つける事はできませんでした。
  雪はどんどん降り積もり、行軍は夜闇の中をラッセルするうちに疲労が募る。携行食も十分な量でなく、何より下士官には軍手2枚、毛布2枚、靴は防寒仕様でなく肌着は綿。外套もウール製で、とても一晩越せる代物ではなかったとか。将校は羅紗織りの外套だったので多少は保温性がありましたが、それでも死者は出ています。
 映画の「八甲田山」の原作は新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」で、新田次郎氏は後に出された「遭難始末」だけでなく生還者や地元民にも詳しく取材してました。ただしあくまでも山岳小説なので事実と異なる箇所はあり、遭難しなかった弘前第31連隊との繋がり(行軍の途中で会えたら云々)は無かったそう。同じ陸軍でも別々に計画された訓練行軍で、そんなものかと意外に思いました。
 田代新湯まであと1.5kmほどの地点で指揮官はそこを露営地にして1泊すると決める。兵士らは40人ずつ6畳ほどの広さの雪壕を掘りますが、積雪が深くて2.4m掘っても地面に達しない。 仕方なくそこに入るのですが、火を起こすのに1時間かかり交代で暖を取っても十分でなく、食事の煮炊きもままならない。さらに「眠ったら死ぬ」「体を動かしていないと凍傷になる」との達しがあり、仮眠は雪壁にもたれて1時間ほどで、後は足踏みをしたり軍歌を歌っていたのだそう。
 

 定説では日付が1月24日に変わる頃、気温は-20℃まで下がっていた。雪壕はほとんど役目を果たさず、指揮官は「ここで留まっていたら全滅する」と判断し、深夜2:30に青森駐屯地に戻るために出発しますが、これが大量遭難の始まりになりました。


 雪中行軍の大隊長の山口少佐。実際の指揮官は神成大尉という人で、大きな連隊の行軍には偉い人がつくのが通例だったそう。山口少佐は生還しましたが神成大尉は亡くなっており、この両者の意志疎通が十分でなかったとも言われます。山口少佐が独断で進行方向を決めたりしたようで、映画ではよい描かれ方ではなかったすね。生還してすぐに亡くなっており、軍上層部に口封じで謀殺されたのではないかと囁かれましたが、上層部まで大量遭難の経緯が伝わる前だったのでそれは無いとか。


 極寒の夜闇をまたラッセルしなければならないのは将官も下士官も兵卒も同じで、食事は僅かでほとんど不眠不休。加えて吹雪は暴風雪のレベルになっていた。連隊は橇を放棄して物資を各自で持つようになり、橇の他に物資を運んでいた行李隊もそれを放棄します。
 眉や睫毛からツララが下がり、暴風雪もあり目も開けられない。コンパスは凍り進軍ラッパを吹こうとすると唇に凍りつく。この頃から凍傷や低体温症にかかる者が出てきました。
  まずまっすぐ歩けず平衡感覚もあやしくなってきた。体温を保つ事ができなくなると体内のあらゆる働きが阻害され、意識も朦朧としてくるのですね。冬山だけで起こるものではなく、2009年7月には大雪山系のトムラウシ山で低体温症でツアーガイドを含む8名が亡くなってます。
 綿の軍手2枚しか着けていなかった兵士の手は凍傷にかかり、ボタンのかけ外しも出来なくなった。排泄しようにも軍袴のボタンを外せないので垂れ流しで、それが凍るので低体温症はますます進行する。連隊は馬立場を目指すつもりでしたがある中尉が「田代新湯への道を知っている」と言い、山口少佐がならば案内せよと後に続きますが峡谷に下りてしまう。仕方なく崖を登ろうとすると別の中尉が卒倒して亡くなり、ここで将校たちの心が折れます。


 やむなく第2の露営地を作りますが、ここで最も多くの死者が出たそう。隊は隊の体を成さなくなっていき、行き先も帰る道も分からない混乱の中で隊は田代新湯を目指すグループと青森駐屯地を目指すグループに分かれ、どちらもどんどん死者と落伍者を増やしていく。210人が3日目には60人になり、最終的には十数名になった。最後には錯乱して川に飛び込んで流された人がいたり、矛盾脱衣で服を脱ぎ捨てて亡くなった人も多かった。捜索隊には一万人が投入されましたが、最後の遺体が収容されたのは5月28日だったそう。川に飛び込んだ人たちは下流を堰き止めて収容しましたが間に合わず、海まで流された人もいました。

(* ̄ー ̄)v- 映画では隊が分裂した時に「これからは各自で青森駐屯地もしくは田代新湯に向かうように」との訓辞があり、そこで兵卒も心折れて正気の限界を迎えますが、生還者の小原伍長や後藤伍長はそれを聞いたと証言し、山口少佐が「天は我らを見放した」という主旨の言葉を発したとも。けれども生還者のひとりは「部隊解散命令は無かった」と証言しており、記憶もしくは解釈の違いがあったよう。後者の証言は中尉から出たものなので、それはそうかなと。上官が責任を放棄したとは言えないだろうし、部隊解散命令でなく「大隊の枠内での任意行動命令」と考えたのかもしれない。

 結果はほぼ全滅で、広範囲に点々とマーキングされた遺体発見場所を示す地図がいたましい。陸軍はこの大惨事を糧にして寒冷地の装備を改良し、それが日露戦争の勝利に繋がったと言われますが、そう言うしかないだろうとか、「それ以前にやる事があったはずだ」としか。同じ陸軍でも弘前連隊は防寒具を備え地元の案内人を雇っていた。八甲田雪中行軍遭難事件は単に雪山での遭難防止だけでなく、企業などのリスクヘッジとか、組織というものの在り方を考えられそうですね。

(* ̄ー ̄)v- これまでは「未曾有の大寒波」こそが大量遭難の原因とされてきた。けれどもそれが一番の原因ではないらしい。後はもう人的要因しか無いよなぁ・・・・・・・・・