( * ̄▽ ̄)v- 1953年の南東稜からの英国隊の初登頂を皮切りに、エヴェレストでは別のルートからの「初登頂」が続きます。ちと長いけど昔書いた記事から引用するとこう↓


1960年5月25日 北稜~北東稜(ファースト・ステップ回避) 中国隊

1963年5月22日 西稜(一部) 米国隊

1979年5月13日 西稜(全) ユーゴスラビア隊

1979年5月22日 南西壁 英国隊

1980年5月10日 北壁 日本隊

1980年5月19日 南峰東側 ポーランド隊

1980年10月20日 ノース・コルから北壁 イタリア ラインホルト・メスナー(単独)

1982年5月4日 南西壁から西稜 ソ連隊

1983年10月8日 東壁 米国隊

1984年10月3日 北壁 オーストラリア隊

1984年10月20日 ノース・コルから北壁 米国隊

1988年5月12日 東壁南面バットレス 国際隊

1995年5月11日 北東稜(全) 日本隊

1996年5月20日 上部北東稜 ロシア隊


( ; ̄▽ ̄)v- ふぅ。ひとつの山でもこれだけの「初登頂」があり、前から後ろからまんべんなく登り尽くされてるのがエヴェレストなんですね。5月と10月の登頂が多いのはモンスーンの前後のため天候が比較的穏やかで登りやすいから。さらに厳冬季とか単独、単独無酸素での初登頂もあり。世界最高峰とはこれだけのモチベーションを掻き立てるものなんですね。


 ↓これは1960年に北東稜から登頂した中国隊。ファースト・ステップは迂回してセカンド・ステップから登り切りました。夜間の登頂だったと言われ頂上からの写真が無かった事と、当時は中国がチベット側の登り口を独占していた為  西側の山岳界は「フカしとるやろ」と思っていましたが、昼間の写真を検証して確かに登頂したと認知されました。今は夜間の登り下りもプロは普通にこなすそうですが、それが定着したのは1980年代からとの事で、気合い入ってましたね中国隊。


 これは1980年の日本隊の初登頂。けれども冒頭からテントに隊員が駆け込み中から号泣する声が聞こえてきて、高所順応に失敗した方が急死されたとの事でした。これは知らなかったので驚きました。

(* ̄ー ̄)v- エヴェレストでは少し前まで元気だった人が突然亡くなる事もあり、登頂して帰る途中にふと座ってそのままという事例も。持病があると顕在化して、急に重篤な状態に陥ったりするみたい。あまりにも高い山だと肺水腫や「脳がむくむ」ことがあり、早く低いところに下ろさないと危ないそうです。


 この遠征でサミッター(登頂者)になったのは松浦輝夫氏と植村直己氏。明治大学山岳部の先輩と後輩すね。この2人は1番手で、植村氏はサポート隊員としての参加だったけど体力と意志力を買われて頂上アタックメンバーに選ばれました。


 当初の目標は南壁からの登頂だったそうですが、途中から南東稜にルートを修正して1980年5月10日の9:10に登頂。植村氏は先輩の松浦氏を先に頂上に立たせようとしますが、2人で肩を組んで登頂したそう。

植村氏は「人の先に立ち エヴェレストの頂上に立つという事はとても喜ばしいことだけど、同時に申し訳なく感じた」と語りました。日本人初登頂者として大々的に報じられてると知り、帰国は隊より後の便にしたのだそう。奥ゆかしい方で、これ以後は大遠征隊には参加せず単独の冒険がメインになりました。大人数の中にいると気を遣って疲れてしまう方だったのかもですね。


 そしてゴンゴンと単独でゆくメスナー御大。単独もしくは少人数で短期間で頂上を目指すのはアルパイン・スタイルと呼ばれ、主にヨーロッパアルプス登攀から始まったもの。大遠征隊の極地法(エクスペディション)とは対極をなすものです。極地法と違って自分たちで前進キャンプを作りながらサクッと往復するので費用面のコストは少ないですが、高所に上げられる物資は少なくなるし、何かあったら生還できる可能性は低め。それでもこちらの方が自由に登れるメリットがあるようです。


 メスナー御大でさえエヴェレストは1回目は2人で登り切り、単独無酸素は2回目の登頂でした。若い頃に世界9位のナンガ・パルバットで弟と足の指を6本失い、17年かけて8000m峰全14座の単独無酸素登頂を達成。ラテン系だけど東洋の宗教者のような独自の哲学を持ってます。


 グリーンランドや南極大陸の踏破もやっており、そこは植村直己氏も同様ですね。エヴェレスト初登頂者のヒラリー卿もトラクターで南極点に行ったり(フアッ?)、宇宙飛行士だったニール・アームストロングと北極点に行ったりしてました。世界最高峰を征してなお極地を求めるモチベーションは何なんだろう?


 単独無酸素だとこんないでたち↓ シェルパも雇わず、他の隊の残したロープも使わず、お茶1杯ご馳走になってもいけません。有名なのはオードリー・ソーケルド女史だったかな? エヴェレスト登頂の鑑定士のような重鎮がいて、虚偽の申告はことごとくハネられます。てかこの荷物で足りるものだろうか。畏敬を超えて戦慄するレベルです。


 西洋のクライマーにはアジアの仏教や世界観にハマる人もおり、メスナー御大もけっこう遠いところまでいってます。顔が見えなくてシャドーマンとかナイアルラトホテップみたいだなぁ。


「どうしても酸素マスクなしで登らなければならない」はもはや修験者の領域。インドの苦行者(サドゥー)とかキリスト教の求道者とか、ほとんど宗教者みたいです。


 無貌の神かと(涙)


 顔も見えないのにこんなにカッコいいヤンキー座りを見た事がない。1924年のマロリーへの尊敬の念は強く、1999年の捜索隊に対しては「マロリーは二度死んだ」という本を書いて不快感を表しました。商業登山隊の遠征だったので、それに不快感の強いメスナー御大には「マロリーの遺体で商売しやがった」って思いがあったようです。


 1990年代後半になるとエヴェレスト登山の様相は激変します。1991年にソ連が崩壊して、軍用の酸素ボンベが大量に海外に売りに出されたんですね。安価で軽量なボンベが広く調達できるようになると、商業登山隊(公募登山隊)というものが生まれました。


 これは経験豊かなガイドが顧客をエスコートするガイド登山隊で、そもそもエヴェレストに登るにはネパールか中国に許可をもらって入山料を納めねばなりませんが、ネパール側の南東稜だと1人につき110万円。これでも近年に値下がりした方です。

(* ̄ー ̄)v- 各国の遠征隊があらゆるルートで初登頂したエヴェレストは、もう大抵のルートが確立したので先鋭的なクライマーの食指を動かさなくなったんすね。その代わりにアマチュア登山家に門戸が開かれました。個人だと入山料以外にも移動や滞在費、ポーターやシェルパの人件費がかかるので総額数百万~一千万円にもなるのだそう。公募登山隊は入山料込みで数百万円ほどで煩雑な手続きを代行してくれて、現地では可能な限り快適にガイドしてくれるというものです。(気象条件などによって登頂の保証はされない)


 ↑これは米国のマウンテン・マッドネス社のスコット・フィッシャー氏。米国人で初めてローツェに登頂したクライマーで公募登山隊の会社を起業し顧客を引率しましたが、1996年のエヴェレスト大量遭難の際に亡くなりました。


 その時の様子はもうひとつのアドヴェンチャー・コンサルタンツ社の公募登山隊に参加していたアウトドア誌のライター、ジョン・クラカワーが「空へ」というノンフィクションに書いており、少し前に天下のユニヴァーサルが「エヴェレスト 3D」という映画にしました。全編ヒマラヤロケではなかったそうですが、クラカワーの著書に忠実な内容でしたね。


 ↑当日のまだ遭難が起きていない時の映像。たくさんの登山者がおり、マウンテン・マッドネス隊(フィッシャー隊)とニュージーランドのアドヴェンチャー・コンサルタンツ隊(ロブ・ホール隊)、あと公募登山隊ではない台湾隊と南アフリカ隊がエヴェレストの上部に上がっていました。

(* ̄ー ̄)v- 2つの公募登山隊は隊長とガイドの3人とシェルパ頭(サーダー)、あと9人の顧客で同数の13名ずつ。顧客はアマチュアが多く、8000m峰は初めてという人もいました。どちらの隊も14時を登頂までの最終時刻にしていましたが、具合が悪くなった顧客をサウス・コルより上で待たせたり、もう遅いと撤退指示を出しても登り続けた顧客がいたりして、それぞれの隊長は16時を過ぎても対応するために頂上直下に留まり動けなくなりました。


 特にアドヴェンチャー・コンサルタンツ隊長のロブ・ホールは「たとえ頂上が目前でも14時に引き返せ」と顧客に繰り返し意識づけしていましたが、頂上直下のヒラリー・ステップは1人ずつでないと登れないのに大勢押し寄せて渋滞になっていた。疲労がピークに達する超高所でそれぞれの隊は離ればなれになり、フィッシャーもホールもシェルパは下ろしてサウス・コル付近まで下りていた顧客の対応に当たらせます。


 ホール隊の顧客が撤退指示を聞かずに16時頃に登頂しますが、酸素も切れて行動不能に陥る。ホールはガイドの1人をサポートに呼びますが、衰弱した顧客は滑落し、ガイドも行方不明になってしまう。フィッシャーは登頂して後から登ってくる顧客を待っていましたが、その間に重篤な状態になってしまいます。


 体調の変化や制限時間を守って登頂を諦めた顧客はそれぞれの隊長が下りて来ないので合同隊の形をとって下山しようとしますが、日没と猛吹雪が来てしまった。どこで誰がまだ生きているのか分からないような混乱の中、ひどく衰弱していた顧客の難波康子さんと米国人のベック・ウェザーズはもう助からないと判断されその場に残されました。(ウェザーズは意識を取り戻し自力で下山。第4キャンプでも意識消失したが再度蘇生して生還)  スコット・フィッシャー、ロブ・ホールは頂上直下で亡くなり、死者は双方の隊で合わせて5人。同じ日にチベット側から登っていた隊からも3人の死者が出て、これは2014年に16人が亡くなったエヴェレスト大雪崩が起こるまで「最悪の遭難事故」と呼ばれました。


https://ameblo.jp/otoko-bana/entry-12029088451.html 


↑ジョン・クラカワーのノンフィクション「空へ(INTO THIN AIR)」の内容はこう。この人はアドヴェンチャー・コンサルタンツ隊に参加していて、登頂して早い時間に第4キャンプに戻っていましたが、後から他の顧客と当時の状況を話し合うと記憶がまったく違っていたのだそう。自分の隊のガイドだと思ってたのはマウンテン・マッドネス隊の顧客で、もう認知機能もおかしくなっていたようです。恐ろしいですね。難波康子さんは田部井淳子氏に次ぐ世界七大陸最高峰の登頂者ですが、七つめのエヴェレストで帰らぬ人になってしまいました。遺体は下ろされて荼毘に付され、ご家族と一緒に帰国されたそうです。

 スコット・フィッシャーとロブ・ホールの遺体はそのままでネットで写真も見ましたが、近年に下ろされたという記事も見ました。ロブ・ホールは無線でベースキャンプにいたIMAX撮影隊とも交信しており、衛星電話でニュージーランドにいる奥さんとも話せたそう。IMAX隊は生還者のために自隊の酸素ボンベを惜しみなく提供し、よその隊が捨てたボンベから酸素を吸って登頂しました。

 IMAX隊のメンバーは、「スコットともロブとも友達で、どちらの奥さんからも何か身に着けてる物を持ってきてほしいと頼まれたけど、雪に埋まっていて掘り出せなかった」そう。どちらもエヴェレストやK2に登頂してるベテランだったけど、超高山の登山をお商売にすると、いちばん大切な「退き際」を見極めにくくなるんですね。メスナー御大は生前のロブ・ホールを名指しで非難した事があり、初登頂者のヒラリー卿も「少し山を休ませろ」と述べたとか。ただそこにいるだけで激しく消耗するヒラリー・ステップに順番待ちの行列ができるなんて異常だと。

(* ̄ー ̄)v- 西稜からの初登頂者のトム・ホーンバインは「1996年のエヴェレストで起きた事はしばらくすれば忘れられ、また起こる」と述べた。頂上アタッカーが厳しく選抜される登山隊から登頂した人々にとっては、商業登山隊は危うすぎるんですね。国籍を問わないから意志疎通もスムーズじゃないし、顧客の登山技術に個人差がありすぎる。お商売にしたら実績を上げねばならないから無理をする・・・・・・・


 それでもエヴェレストやそれに準ずる超高山を目指す人々は後を絶たず、それが山麓の人々の暮らしを助け、インフラ整備にも繋がってる事は否定できない。今はシェルパが刻々と姿を変えるアイスフォールを整備して、外国の登山隊を迎える準備をしているそうです。近年は清掃登山や放置されてる遺体の収容も行われてる。地球温暖化で氷河が溶けて、流されてきた遺体がベースキャンプ付近で見つかるようになったのだとか。


 登りやすい季節には相変わらず行列ができる。一応は渋滞緩和のための規制があるそうですが、高い入山料を払っているし登れる期間も限られてるので簡単には退けませんよね。そこに「狂気」があると言えばそうかも。私ももし行けたら並ぶだろうなと。


 高度5300mのベースキャンプはオリンピックの選手村のようになっていて、ものすごく近代化されてます。カメラが目まぐるしく大きなテントの中から外を飛び回り、ネット環境も整ったリゾート地みたいな景色を映し出します。

 雪の中でゴルフスイングをやってる人もいれば、あれは何してるんだろう。ヨガ? マジっすか?


 まるで何かを召喚してるみたい(涙)  昔 バックパッカー夫妻の本で「エジプトのピラミッドで座禅を組んでパワーを受け取ろうとしてる人たちがいた」と読みましたが、エヴェレストはパワースポットと言われたらそうか。。。


 黄色いのはテントの群れ。2014年の大雪崩ではこのベースキャンプが爆風で吹っ飛んだそうですが、集まってるなぁ。。。