( * ̄▽ ̄)v- お次は八重野充弘氏の血沸き肉躍る埋蔵金探索遍歴で、原点は氏の出身地でもある熊本県の天草地方に伝わる「天草四郎の埋蔵金」探しだったそう。 



 八重野氏は「土を掘るより資料を掘れ」ってスタンスのトレジャーハンターで、その土地に伝わる伝説や古文書、噂話などを詳しく分析して埋蔵金のありかを推測するのだとか。もうその時点でワクワクしますね。各地には謎の文書とか遺物がたくさんあり、「これは暗号だろうか?」とか考え始めるとキリがない。この天草四郎の埋蔵金伝説は、1847年(弘化4年)に江戸日本橋の薬屋さんの蔵から出てきた古文書や絵図が発端だそうです。

(* ̄ー ̄)v- 天草四郎と言えば島原の乱(1637年/寛永14年)の中心人物で、映画「魔界転生」のおかげで沢田研二しか浮かばない。当時はお美しゅうございましたな。天草四郎とは通称のようなもので、本名は益田時貞。父親がキリシタン大名の小西行長の祐筆をしていたようで、この父親が一揆勢の評定衆だったそう。天草四郎はまだ年少だったので総大将と言うより御旗だったんすね。

 島原の乱は発生から鎮圧まで幕府が半年かけたという大きなもので、島原と天草の一揆衆が合流して当時はもう廃城になってた原城に籠城しました。およそ37000人が籠城したと言われ、廃城を改築して居住空間などを整備し3ヶ月間持ちこたえましたが幕府は124000名の兵力を投入し落城。直前に1万人ほど投降したとも言われますが、徹底的な殲滅戦で籠城勢は女子供もすべて殺害されました。さらに当時の島原藩主は改易され斬首。天草の領主も改易され後に自害したのだそう。藩主が切腹でなく斬首になったのはこの1件のみで、大規模な一揆の原因を作った責任を重く見られたんですね。キリシタンの一揆のイメージが強いのですが、もともとは過酷すぎる課税が招いたものでした。

(* ̄ー ̄)v- けれども島原や天草には大勢のキリシタンがおり、天草四郎が御旗として担がれるのはそれなりの下地がありました。埋蔵金伝説は原城籠城戦の終盤に、敗色濃厚になってきた為 四郎は城内の女子供や老人をひそかに逃がそうと考えたそう。そして逃走路の途中にある山の洞窟に「重さ6kgの黄金の十字架、金銀の燭台20基、宝石をちりばめた王冠、沢山の大判小判」を再起に備えて隠したと・・・

 その隠し場所を知るのは小山田慶信という武士で、小西行長の家臣だったそう。この小山田慶信は隠し財宝を守る役目を与えられていましたが、財宝を天草市の某所に移し、その場所を記した書を残して失踪。それが1874年に江戸日本橋の薬屋さんの蔵から出てきたんすね。


 隠し場所は天草市有明町にある柱岳(432m)のふもとの三角池ではないかと言われ、YAMAPを見たら登山してる方も多かった。そこを推す根拠は他にもあり、昭和12年に長崎の人が天草の楢本という所で金の十字架を購入したら暗号文が刻まれていたって話と、八重野氏の著書では昭和10年に柱岳のふもとから5cmほどの金メッキの十字架が見つかりそこに暗号文が刻まれていたと書かれており、同じ十字架かは判りませんが暗号文は同一でした。

「さんしある二   こんたろす五   くさぐさの   でうすのたから   しずめしずむる」

┏( ; ≧□≦ )┓・・・っカーーーーーッ!!! 机をバンバン叩きたくなるこの字面!!この響き!! 諸星大二郎御大の妖怪ハンターシリーズの「生命の木」みたい。みんないっしょにぱらいそさいくだ!!

 江戸時代に見つかった古文書と絵図、そしてこの金(メッキ?)の十字架に刻まれていた暗号から埋蔵金探しが始まり、八重野氏はこの暗号は「さんしある池」→「三角池」ではないかと考え、柱岳のふもとで「から池」と呼ばれてるのがそれじゃないかと探索を始めます。


 ただ暗号にあった「さんしある」と「こんたろす」はポルトガル語を日本語読みにしたものみたいで、それだと「聖遺物二個、ロザリオ五個、種々のゼウスの宝を沈めしずむる」になるのだとか。じゃあ三角池って意味が無い?・・・と思いましたが、八重野氏は「から池」から箱の一部のような木片を見つけていました。


( ; ̄▽ ̄) なら箱に入ってた財宝がその下にあると思ったんだけど、池の水を排水するポンプが目詰まりして使い物にならなくて、そこで中止せざるを得なかったんですね。

 あらーーー・・・・残念。とりあえず何かはあると思われましたが、TBSみたいな資金力が無いので発掘は中断になり、八重野氏いわくto be continued案件なんですって。「俺たちの戦いはこれからだ!」ってやつですねぇ。

 トレジャーハントに立ちふさがるのは↓こういう課題。いろんな分野の専門知識や技術力が必要なんですね。スタジオでは「この番組ならこれ全部こなせる人材がいます!」と言ってました(笑)  洞窟はあの人だな絶対。


 そしてお次は旧日本軍の隠し財宝。マレーとか行ったんすか?と思ったら福井県敦賀市で、私は初めて知ったけど昔から言われてたのですね。検索したら先に一乗谷朝倉遺跡の埋蔵金発掘プロジェクト!!なんてのがヒットして、市役所に埋蔵金発掘課なんてのを作ったとあっておおーーー!!でしたが、市のエイプリルフール企画でした。こ憎いことを(涙)


( * ̄▽ ̄)v- これは旧日本軍が中国から略奪してきた美術工芸品や貴金属を、敗戦間近の昭和19年に敦賀の山中の洞窟に埋めたという伝説。時代が新しいので八重野氏は初めは乗り気でなかったそうですが、ずっと探してるという方から連絡があり、「自分はもう高齢なので最後の仕上げを託したい」と言われ緻密な調査書や写真も託されたとか。それを見て「これはある!」と確信されたそう。推定価値ざっと2000億円と来ればたぎりますよね。


 調査を引き継いだ八重野氏は託された資料に基づき探索開始。戦時中の敦賀市には陸軍の敦賀連隊が常駐しており、その中の第19歩兵連隊の将校さんがご当地の旧家によく泊まりに来てたそう。その将校が当主に財宝を隠したと伝えたのだとか。それは日中戦争の際に日本軍が持ち帰ったものとされ、第19歩兵連隊は確かに日清戦争・日露戦争・日中戦争・上海事変に従軍してたびたび大陸に渡ってました。財宝の隠し場所は不明のままでしたが、八重野氏は山中の櫓(戦時中の監視塔?)のそばに木の杭が不自然な角度で立っているのを見て、その方角に進んで洞窟の入り口を見つけます。おおお!?


 そこは標高800m地点で重機は上げられず、長期間をかけて殆ど手掘りで進んだそう。奥行は30mほどで、途中では深さ5mほどの縦坑が落盤で埋もれていたとか。崩落の危険があり、八重野氏たちは杭木を組んで安全確保をしながら進みました。

( * ̄▽ ̄)v- すると竹製のボタンが落ちていた。これは戦時中の軍服によく用いられていたそうで、兵隊が出入りしたのか?とワクワクしますね。


 最奥部まで行けたそうで、そこには岩を敷き詰めて漆喰で塗り固めた壁があり、金属探知機に反応があったそう。人工壁発見の時点でテンションが上がります。


 八重野氏いわく「周りに緑色の凝灰岩がたくさん積まれてて、その向こうに財宝を封じた部屋があると感じた」なのですって。そこで発破とかは崩落の危険があって出来なかったのかな?


 発掘が進むうちに酸欠の恐れが出てきたり、洞窟の周りに熊が出るようになったのも発掘中断の理由ですが、何より大きかったのは石器が出てきた事だそう。


 工事現場でもそうだけど、古代の遺物が出土するとそこは「埋蔵埋蔵文化財包蔵地」に指定され、発掘を続けるのに特別な許可が必要になる。工事現場から古墳とか出ると工事がストップしますよね。ここの発掘もこれで続けられなくなりました。


 ここもto be cntinued案件。果たして財宝が隠されているんだろうか? こんな感じで八重野氏の活動は「あと一歩」のところで休止になる事が多いのだそうです。