七ツ塚の上の紅葉と黄葉。「おおー」と声が出ました。朝なのでウォーキングの方も見かけましたが、よいところを歩けて羨ましい。うちの方には赤紅葉は殆ど無いんすね。住宅街からすぐそこだしいいなぁ。



 ここは馬場跡で、近年に馬防柵のレプリカが設置されました。戦国時代はこの下はどうなってたんだろう? 本丸のすぐ下に馬防柵がつく構造って無いすよね? 野戦場に作るものだと思ってました。


 日当たりのよい方向から紅葉を振り仰ぐ。黄葉もあって単色じゃないところがいいですね。赤と黄色のどちらも引き立ちます。


 朝日を浴びるとさらに鮮やか。青空も加わって綺麗ですね。またひとつそんなに混まない穴場を見つけました。


( * ̄▽ ̄)v- 明暗が加わっても鮮やか。城の周りの紅葉が見事で天守炎上と言われるのは郡上八幡城ですが、ここも美しい。穴弘法の土岐髙山城と同様に戦火で落城した城なので、ここも感慨深いものがあります。


 日射しで紗がかかるよう。夜間ライトアップがあれば幽玄な景色になるでしょうが、朝は魂が抜けるよう。空気は冷たく澄んでいて、朝の紅葉も良いものです。


 馬防柵を伝ってサクサク歩く。この辺りは可児市の中心部からは離れてるので、閑静で落ち着くところ。鳥の鳴き声がしてましたね。


 右手を見上げるともう本丸。天守は無かったそうですが広い台地になっており、真ん中に明智光秀公のブロンズ像が立ってます。


 壮年期のお姿でなかなかイケおじ。槍や刀でなく火縄銃を持ってるところが光秀公らしいすね。惟任日向守という名乗りはいい響きですが、後に謀叛人を想起させるとして嫌われました。惟任とは朝廷から賜る姓で、他には丹羽長秀がよく似た惟住という名乗りを持ってました。織田信長が天下統一の仕上げは九州になると思っていて、日向守など九州の地名の入った通称を重臣に使わせる勅許を得ていたそう。九州の大名には預り知らぬ事なので「はぁ?」だったでしょうね。


 こちら側からだとめちゃくちゃ住宅街に近い本丸。大手道から来れば20分くらいかな? あっけなく先に着いてしまいました。


 明智光秀の出自は諸説あり、ここまで書いた事も信憑性が高い資料に依るものです。生誕地も恵那市の明知城説や山県市の中洞説がありますが、明知城は明知遠山氏の城で文献資料からは確たる記述が見られず、山県市説では土岐氏の当主争いに敗れた土岐元頼のご落胤で、幼い頃にここに養子に出されたとか。ただ土岐元頼は美濃長山城主だったとも言われ、ここの事なんですね。そうなると土岐明智氏はその頃どこにいたのかとか、明智光秀はとにかく出自から謎が多いです。


 一応は長良川の戦いの斎藤道三勢の中に叔父の明智光安と光秀の名はあるんですね。光安は娘を斎藤道三に嫁がせており、それが小見の方。この女性が濃姫(帰蝶)の母親で、なので明智光秀は濃姫の従兄弟だと言われます。しかし光秀じしんは出自について書き残しておらず、文献によっては「土岐明智氏に光という通字は使われていない」なんて記述もあり、やはり出自に謎は多いです。同時代に書かれた一次資料は遠方のお公家さんが書いたもので、地元では室町時代以降に書かれた二次資料(誇張や創作も入る軍記物とか)しか無いみたい。消去法で恵那市の明知城出身ではないだろうとされ、山県市中洞説も今ひとつで、8割方ここだろうとされてます。(近江生誕説もあり)


(* ̄ー ̄)v- 光秀じしんは自分を名門・土岐氏の流れと称した事はないような。土岐氏傍流はめっさ多くて斎藤道三・織田信長の時代にはもうそれほど有り難みが無くなってたと思いますが、本能寺の変の直前に連歌会で「ときは今 あめがしたしる五月かな」と詠んで居並ぶ文化人がギョッとしたそう。普通に「今は雨がシトシト降る五月だな」と読めますが、同時に「土岐氏が今 天下を下しる(統べる)五月かな」って意味にも取れたんですね。そう受け取られる事が分からない武将ではなかったと思うので、もう本能寺の変を起こす準備が整っていて そこでチラリと匂わせても構わないって気持ちだったのかなと。同席した文化人にも「謀反を起こすかも」と思われてたんでしょうね。そういう状況だったと。

 明智城落城の時はもう30歳前後だったとされ、普通なら亡き父の跡目を継いで城主になってるのが自然でしたが、後見人の叔父が嫡男を養子に出していたので遠慮して城主になるのを固辞していたとも言われます。2人の叔父は落城とともに自刃し、一緒に落ち延びた明智秀満・光忠とはいったん離れて北陸の朝倉義景の領地に向かい、そこで10年ほど過ごし、再び表舞台に出た時は足利義昭に仕えてました。

 そこから足利義昭に「朝倉義景は頼りないが織田信長は頼りになる」と進言し、しばらくは両属でしたが織田信長の重臣となる。その時はもう38~39歳で、けっこう年齢がいってました。織田家譜代の家臣でもないのに急に重臣に昇格したのは羽柴秀吉と同様で、信長が能力で部下を見る人だったから。後に山崎の戦いで打ち負かされますが、元々仲は良かったそうです。

(* ̄ー ̄)v- 有為転変を経て再び大名に返り咲きしましたが、ここに戻って来ることは無かったですね。居城の坂本城はいま琵琶湖の水位が下がって石垣などが露出してるそう。落城の際は明智秀満が騎乗して琵琶湖を渡って城に戻った故事が有名すね。攻め手はどうせ沈むと思って見てたら見事に渡り切ったので喝采したそう。そこで降伏勧告を受け入れ、家宝を引き渡して一族と共に自刃しました。既に光秀は京都の小栗栖で落ち武者狩りの土民に討たれており、けれども秀吉は首実検をしていないとか、晒された首級は見物人からかなり遠い場所だったとか、生存説はありますね。山県市で隠棲したという言い伝えもあります。

 ブロンズ像の後方に展望台があり、白い山が見えました。あれは福井県境の能郷白山かな? 石川県境の白山にはちょっと遠いような。


 おお、御嶽山も冠雪したんだ。下呂市の白草山から正面にドーン!!が見たいところですが、実は仕事中にまた腰を傷めてしまいました。この日に行けたらと思ってましたが、腰を屈めて巨神兵みたいに歩いてるくらいなので断念しました。無念なりです(涙)


 案内板だとイマココ。せっかくなので、ここから少し下って城跡めぐりをしてきました。