( * ̄▽ ̄)v- せっかくの撮り放題なので常設展示もご紹介。ずいぶん前に来た時は古墳の出土物も多かったと思うのですが、この日は少なめでした。こういうのは御嵩町の郷土館が豊富ですね。可児市の木曽川河畔からはサイや象の祖先の化石骨が見つかっており、東濃は古墳時代に豪族が多かったのかあちこちに古墳があります。これは家形石棺。中に納められた遺骨はどうなったんでしょうね。日本は酸性土壌が多く早くに土に還ると聞きますが、石棺の中でもそうなんだろうか。



 出土地は可児市羽崎の日吉古墳。ここに来る途中に通る地域です。古墳時代後期に凝灰岩をくり抜いてつくられたもので、蓋が屋根の形をしています。大昔からお墓はご先祖の家だったんですね。ここ以外に10ヶ所で見つかってるという事は、やはり豪族が多かったんすね。


( ; ̄▽ ̄)v- あらやだ撮影禁止の関ヶ原の戦いの諸将の旗印一覧の屏風が写り込んでる。ごめんなさいわざとじゃありません。ガラスに向かいの展示物の説明板も写り込んでしまいましたが、こちらは久々利地区で出土した銅鐸。デカいっす。


 銅鐸は鐸(たく)という中国の柄つきの楽器が源だそうですが、日本では吊り下げて鳴らす鐘として使われました。近畿地方に多く、紀元前2世紀から2世紀にかけて作られ、なぜか3世紀に入ると急に作られなくなったとか。これも近畿地方に多い型だそう。

(* ̄ー ̄)v- 何の為に作られたかは諸説ありますが、自然信仰のお祭りで豊穣祈願のために鋳造され、地中に埋蔵されることが多かったとか。弥生時代なので農耕文化の熟成をあらわすものかな。急に作られなくなったというのが謎ですが、この辺りは立派なのを鋳造できる環境だったんすね。


( * ̄▽ ̄)v- 時代がビューンと下がって美濃国名産の焼き物文化の発展へ。こんな大きな模型あったっけ?と思ったら、多治見市の博物館から借りてきてるよう。東濃で盛んだった窯業は、室町時代から安土桃山時代まではこんな「大窯」 で器を焼いてました。


 こちらで安土桃山陶と呼ばれる瀬戸焼や志野焼はこの大窯から生まれました。これ以前は山の斜面に穴を掘った地中式の登り窯が主流でしたが、室町時代からは山の斜面でも地上式の窯になったんですね。斜面に窯を作るのは煙を上に逃がすためで、内部に細かい仕組みがあり、より高温で焼成できるようになりました。器の硬度とか釉薬の変成の度合いが高まり、丈夫で美しいものが出来たんすね。


 桃山時代から昭和にかけて主流になった連房式登窯。この地域で陶祖と呼ばれる陶匠の加藤一族が佐賀の唐津焼の技法を取り入れたもので、器を並べる焼成室が階段状に連なっていて大量生産が可能になりました。織部焼はこの窯から生まれ、美濃焼の幅が広がりました。窯の形がシステマチックと言うか、産業化したのを感じさせますね。


 やはり山の上のほうの急斜面に窯が作られたとあり、近代まで使われました。今の大量生産品はガス窯のようですが、土岐市には百以上の窯元があり、隣の多治見市ではタイル、土岐市駄知では丼、下石では徳利など地域ごとに生産品が特化してます。昔ながらの登り窯で作陶する陶芸家の個人窯も多いすね。


 室町時代以前から桃山時代までの窯の仕組み。古墳時代から鎌倉時代までの焼き物は須恵器が主流で、各務原アルプスの須衛のふもとに天狗谷遺跡というのがあるのですが、そこには古墳と隣合わせに須恵器を焼いていた登り窯の跡があります。半地下の大きな窯で、美濃古窯跡群のひとつです。その頃の窯では釉薬が美しく変成するほどの火力が出なかったのか、須恵器は素朴なものが大半ですね。生活用品や骨壺に使われ、天狗谷遺跡の窯はより原初の仕組みだけど大量生産ができた立派なものです。



(* ̄ー ̄)v- 一口に美濃焼と言っても瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部の始まりや最盛期が少しずつズレている。尾張の瀬戸焼の陶工が美濃にやって来たのが始まりですが、窯の改良とか材料の変化でだんだん洗練された器が作れるようになったのね。東濃は陶土だけでなく釉薬の原料になる鉱物が豊かだったので、その地域性も出たんすね。


 これはほど近い牟田洞古窯跡群から見つかった器の破片。陶芸家の荒川豊蔵氏が見つけたもので、最初に見つけた筍の絵が入った破片が尾張の瀬戸焼のかけらと一致したので、安土桃山時代の美濃焼は瀬戸焼と繋がってると気づいたんすね。そこに自らも窯を作り、美濃桃山陶の再現に取り組みました。そのため今もこの一帯には同じやり方で器を焼く陶芸家がたくさんいます。



 なぜ古窯跡にたくさん破片があったんだろう。窯から取り出す時に割れたものや、瑕瑾があったから打ち壊したのかしら。陶芸家には焼き上がった器を「これはダメだ!」と打ち壊すイメージがありますねぇ。素人には見事なものに見えるけど・・・

 流麗な野花が描かれてる白い器は志野焼。私は色で判別するしかない(涙)  釉薬に長石を多く含むので、絵付けの上に乳白色の層ができるもの。中津川市などで長石はよく産出し、ムーンストーンも長石の一種なんですね。そう思うと人工の錬成が美しく見えます。


 これは別の古窯跡から見つかったもの。イノシシ?と思ったけど魚ですね。鯉だろうか。こんな遊び心もあったのですね。楊枝立てみたいだと思ったけど器の蓋かな?


 これは瀬戸黒。鉄釉という鉄分の多い釉薬をかけて焼かれた器で、主に抹茶茶碗として作られました。これはもう素人でも間違えようがなし。


 これは黄瀬戸。釉薬にタンパンと呼ばれる硫酸銅が含まれていて、照明の加減で茶色っぽく写ってしまいますが淡い黄色に焼き上がります。表面に油揚げのような質感が出るのが良いもので、焼き上がった時に釉薬が器の底に沁み出る「抜けタンパン」が見られるとさらに価値が高いそう。そればかりは焼き上がらないと分からないんすね。


 これは鼠志野。成形した器に鬼板と呼ばれる鉄分を含んだ粘土で化粧掛けして一度掻き落とし、その上から白釉をかけて焼いたもの。掻き落とした部分は白く、その他はツヤのある鼠色になります。釜の状態によっては赤褐色になり、それは赤志野と呼ばれるそう。焼き物は土台の土作りから始まり、土を採取してふるいにかけて陶土を作ります。釉薬は鉱物を細かく砕いて粉にして藁灰などと混ぜて液状にしたもので、焼成の過程は化学反応なのですね。鉱物は火山活動の熱で錬成されますが、焼き物は人がその過程をなぞるもの。どんな色合いや光沢に仕上がるかは焼き上がらないと分からず、大量生産品は均一になるように焼かれますが、陶芸家が作るものは一点物なので貴重なのですね。


( ; ̄▽ ̄)v- 今は廉価な大量生産品も、素人には一点物と区別がつきません。テレビ番組の「何でも鑑定団」でも焼き物は掛軸と並ぶ素人やらかしジャンルですよね。見分ける鑑定士って凄いと思います。分からないなりに本物の安土桃山陶を見られるのは良い経験でしたね。