( * ̄▽ ̄)v- 再び穴弘法~荒川豊蔵資料館から続く流れ旅。シメは久々利城跡で、資料館の駐車場から曲がる方向を間違えて通りかかったので寄りました。

 ここは何年か前に来た事があり、その頃は登城道が整備中だったような。まず県道沿いの可児市郷土歴史館の駐車場に車を停めると、あらまあ名指しされてますよ森武蔵守長可公。豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った「小牧長久手の戦い」で秀吉につき、舅の池田恒興が犬山城に入ったのを見て小牧城を落としに行きますが、それを徳川方に察知されて奇襲され合戦の端緒を開きました。↓久々利城跡だけどこれは森家の家紋。久々利城は森長可に城主を謀殺されて落とされたけどええんかいな。


 これが可児市郷土歴史館。でっかい銅鐸があります。可児市は鳩吹山がある土田の辺りが愛知県境で、その辺りが尾張・美濃の潜伏キリシタンの一斉摘発(濃尾崩れ)の始まりだったんですね。ここは少し離れてますが、何か資料がないかと見に来たことがある。そちらの資料は年表に記載があるのみでした。


( * ̄▽ ̄)v- ここでも陶芸家の作品展示をやっていて、玄関の観賞菊が綺麗。加藤孝造氏は荒川豊蔵氏に師事した陶芸家で、瀬戸黒の茶碗で人間国宝に選ばれた方。加藤という姓は瀬戸焼の祖に連なるもので、こちらの著名な陶芸家に多いです。


 ここにお寺があったのかな? 調べたらここから2km離れたところにあるそうで、今は無住でご本尊などの仏像は歴史館に納められてるそう。しまった前に来た時に見たはずなのに覚えてない。検索したらとても優美な大日如来坐像で、県重文とのことでした。また行こう。


 駐車場から上がって県道を渡ると登城口。前に来た時はなかったわこれ。気合いが入ってるなぁ。


 久々利氏は土岐氏の傍流で、当主は代々「三河守悪五郎」と名乗りました。この当時の「悪」は強いという意味合いで、今の感覚とは違います。一時は烏峰城(のちの美濃金山城)の斎藤正義を破る隆盛ぶりでしたが、本能寺の変の後に中濃・東濃の城を落としまくった美濃金山城の森長可に城主を謀殺され落城。宴に招いて討つという手口は土岐高山城の平井頼母にやったのと同じもので、通り名が鬼武蔵の森長可の血腥いエピソードのひとつです。この当時の「鬼」も強いって意味なんですけどね、この方はいろいろと(涙)


 がっつり「森長可により断絶」と刻まれている。久々利氏も名門・土岐氏なので家紋は桔梗です。プライドが窺えますねぇ。


 ここが登城口。久々利城跡は整備が行き届いていて、岩村城や苗木城のように立派な石垣は残っていませんが規模の大きな山城でした。


( * ̄▽ ̄)v- 道標もとってもフレンドリー。どうするかなと悩んだけど、この日は本丸までにしておくかな? 登っていくと三の丸と二の丸跡を経て本丸跡に着きますが、そんなに険しくも長くもない道のりです。登城者を数えるカウンターがあり、ポチッと押して参ります。

( * ̄▽ ̄)v- 久々利城だけどポスターは森長可公。愛馬は百段(美濃金山城の百段の石段を駆け上れたから)、愛槍は人間無骨(この槍にかかれば骨なぞ無いも同然だから)。小牧城を攻めようとしたら家康方に察知されて挟み撃ちにされ屈辱の敗戦をこうむった後、秀吉に不問に付されその恩義に報いるために鎧に白装束を羽織って家康の本拠地・岡崎城を目指しましたが、流れ弾に眉間を貫かれて討ち死にしました。


(* ̄ー ̄)v- 森家は父親の代から織田信長の忠臣で、父の可成と長男の可隆は越前で討ち死にしてました。長可は次男で、その後に蘭丸(成利)・力丸(長隆)・坊丸(長氏)・仙千代(忠政)。すべて同母の兄弟で、男子に恵まれた家系だったんですね。ただ長男から若くに討ち死にする確率が高く、蘭丸と力丸と坊丸は信長の近習だったのでまだ十代で本能寺で亡くなり、長可も二十六歳で亡くなってます。

 森家は当主になった長可と忠政に鬼の気があり、長可は「二十歳になるまでに十人、亡くなるまでに百人は確実に自分の手で殺してる」と言われ、末弟の忠政もついたあだ名が磔右近。とくに信濃国人に対して苛烈な仕打ちが目立ちましたが、忠政は美作国津山藩の藩主になってからは善政を敷いたよう。森長可が最後のいくさに出る際に秀吉に宛てた遺書は有名で、「跡目とかとにかく嫌なので、仙千代は秀吉様のお伽衆にでもしてもらって森家は他人に継がせて下さい」とダイレクト。これは秀吉に臣従の意を示すもので、秀吉は忠政に森家を継がせました。

(* ̄ー ̄)v- 若くしていきなり当主になったから、長可にせよ忠政にせよ舐められないように殊更「鬼」の振る舞いをしたんじゃないのかなと。他者への細やかな配慮も見られる人で、妻は池田恒興の娘ですが妻宛ての手紙は対・大名レベルの文体だったそう。遺書はやさしい平仮名で書かれていて、「娘は武士でなく医者に嫁がせるように」とか「相次いで夫や息子を失った母は京都で穏やかに暮らしてほしい」とある。最近は京都に基盤を作っておきたい意図があったとも言われますが、身内には心こまやかな人だったかと。逸話はそうとうアレで、大河ドラマにできない行いが多いですが。


 本能寺の変の後は早くに秀吉方につき、中濃や東濃の反対勢力を成敗してよいという大義名分を得てました。だからあちこちの城を落としたのですが、数が多すぎて廃城にしたところが多く、ここもそのひとつ。登り口から少し進むと「應仁天皇 若宮八幡神社」という道標があります。


(* ̄ー ̄)v- 八幡神社は全国にあり、いちばん多い神社と言われます。若宮とは神の子(御子神)のことで、神道では八幡神=誉田別命=応仁天皇であり、その后の神功皇后や子の仁徳天皇を含むこともあり。源氏も平氏も武神として崇め、時代が下がるにつれて五穀豊穣の神となったよう。神仏習合では八幡大菩薩で、伝奇ものでよく「南無八幡大菩薩」とかありますな。


 ここは青葉の多いところで、木洩れ日が眩しいくらい。枯れ草をサクサク踏んで進むとお社の基壇のみが残っており、今は別のところに神社があるのだそう。


 また道に戻って登っていくと、白いのぼり旗が見えてくる。あそこが虎口跡になります。