二の鳥居の先には石灯籠があり、否応なしに高まる聖地感。注連縄こそかかっていませんが、これが磐座(いわくら)で無くて何なんだ?ってビジュアルですよね。ここで仁王立ちになって後ろから撮って欲しいけど、お一人様だから我慢してますキリッ!!


 ここがギリギリ全景が撮れるところかな。何がどうしてこうなったって配置でしょう?  県の史跡指定を受けたのは昭和48年で、指定の理由はここが鎌倉時代の源義平の狒々退治の現場という口頭伝承なのだそう。妖怪や邪神とも言われ、中二魂が騒ぎます。


 巨石群の中心をなす「岩屋岩蔭遺跡」はざっと見て4基の巨石から成り立っていて、センターの巨石の下に妙見神社が置かれたのは明治以前だそう。今は柵で仕切られている本殿の裏は地面が平らになっていて、そこは人の手によるもののよう。平成13年に金山町の教育委員会が発掘調査を行い、縄文時代早期の押型文土器片・石鏃・尖頭器が発掘されたそうです。

(*  ̄▽ ̄)v- 時代の異なる遺物も出土しており、他には縄文時代晩期の土器・石鏃・楔型石器・スクレイパー・剥片。弥生時代の土器と穿孔磨製石鏃。あと近世の寛永通宝や擂鉢や拳骨茶碗。近世のものはお賽銭やお供えもののようですが、縄文時代の早期と晩期というのはずいぶんタイムラグがあるような。全部で1万年くらいありますよね? とりあえずこの岩屋岩蔭遺跡は8000年前からあり、縄文時代の人が利用していたと言われます。ロマンですね。

 史跡としては縄文時代から近世にかけての人の痕跡がメインになっていて、巨石を利用した天体観測の場というのは民間団体の「推し」のよう。あちこちにある解説板の内容はとても詳細で、長期に渡る太陽光の観測から裏付けられたもので一読では理解が追いつきません。下世話なツッコミも何処に入れればいいのか分からない(涙)  情熱をひしひしと感じる情報量の多さです。


 最後の石段の両脇に1つずつ小祠があり、これは向かって左側。賽銭箱がないので誰かが小石を置いたらフォロワーが我も我もと積み続けた印象で、とにかく石に意味がある場所という感じ。


 こちらは右側の小祠。後ろの巨石が「北斗七星の配列で小さな穴が穿たれた巨石」で、私は勝手にケンシロウ岩と呼んでます。これだと横から見るアングルで、ケンシロウの頭と肩です。(当社比)


 ケンシロウ岩の前にはメンヒル(立石)。ケンシロウが「死にたい奴は前に出ろ」と指でさし招いてるところ。もういいっちゅーねん。


 そこから斜めに見上げるセンターの巨石。柵があるのは妙見神社の本殿があるのと、その奥から縄文時代の遺物が見つかったからでしょうね。ここに射し込む太陽光で季節の節目を測るとされる「測定石」も本殿の裏にあるそうです。


 石段の途中で見上げると巨石が庇のように張り出していてなかなかの圧。これが倒れてきたらペチャンコになりますが、この岩屋は基部がガッチリしてて、地震でも揺らぐ事はないんですって。


 柵の隙間から撮った本殿。ここにも賽銭箱がないのでどうしたもんかと悩みますが、そうか隙間から投げればいいんだ。うまいこと載せられました。


 本殿は積み重なる巨石の隙間にあり、裏にはけっこう広い空間があるようです。奥にも立ち入り禁止のロープがかかってて、そこが発掘現場だったんじゃないのかな?  ここからではあまりよく見えません。


 反対側は岩屋の入り口が広い。ここは公式には「狩猟の際のキャンプ跡」とされていて、見つかった遺物が狩猟用具の石鏃やスクレイパーだったのが理由のよう。矢尻とか獲物の皮を剥がす道具なので住居跡ではなくキャンプ地だったと考えられたみたいです。

(* ̄ー ̄)v- けど祭祀場と見る意見もあり、古代には神事で矢を射たり器を割ったりすることもあったのがその理由。太陽などの天体観測の場だったとする説も広い意味では祭祀かな。その辺の解釈はどの説を読んでも一定の説得力があり、ネットでもいろいろ読み比べられます。


 センターの巨石の左翼になる巨石。真ん中できれいに割れていて、亀裂が入ってほんの少しずれた感じです。

 
 右翼にあたるケンシロウ岩。苔に覆われていて、最上部は人の頭のようにくびれてます。そこを北辰の依り代と見る説があり、ほおーーーと思いました。


(*  ̄▽ ̄)v- あらためて見ても何やら畏怖を覚える錠前つきの柵。ここが鎌倉時代の邪神退治の場というのがたまりませんね。ここに封印されてると言われると信じてしまうかも。


  石段の下から左に回り込んで登るともうひとつ解説板がありますが、行こうとしたら脳内のヒルセンサーが反応してやめました。ここからはちょっと鬱蒼として湿った木立の中を登るんですね。ここから登って、岩屋岩蔭遺跡の裏を通って散策道に出られるようになってます。