着物をまとった子守り地蔵。抱かれてる赤子が頭からすっぽりと完全装備ですね。ここは心霊スポットと紹介されてる事もありますが、関市の観光課が「心霊スポットでなくパワースポットです!」と頑張ってます。夜に白装束のこの世の者ではない人影が・・・なんて風聞もありますが、この子守り地蔵さんか夜行中の行者さまじゃないのかな? 


 下の分譲地より一段上がったこちらの方が、霊神碑や石仏のバリエーションが豊富です。それでもやはりメインは不動明王で、一体どれだけ奉じられてるのかと圧倒される。空海が持ち帰って広めたとの事ですが、日本の密教としての成立は天台宗の方が少し早いんすね。(806年/延暦25年)

(*  ̄▽ ̄)v- ちょっと面白いのはこの迫間不動尊の始まりは823年(弘仁14年)とされていて、ちょうどこの年に空海が教王護国寺を根本道場として真言宗の宗団を確立してるんすね。まさにその年、ずいぶん離れた美濃のここに「空海が日本に持ち込んだ不動明王」を刻むことができるのかしら?

 さらに刻んだとされる天台宗の智証大師円珍は814年(弘仁5年)の生まれなので、823年にはまだ9歳ほどなんですね。ひょっとしたら本来は「伝・弘法大師作」にするのを慮ったとか、真言宗でなく天台宗の僧侶が刻んだ事実は覆せないから智証大師円珍の名が充てられたのかも。伝教大師最澄と言えば薬師如来像だし、これもちょっと慮って  少し後の智証大師円珍にした?・・・・我ながら読みにくい文章すね(涙)


( * ̄▽ ̄)v- 重箱の隅つつきの妄想ですが、私は「美濃における天台宗と真言宗」がずっと気になってるんですね。山岳修験を含む密教はたぶん天台系(山王系)が先に入ってきて、少し後から真言宗が入ってよく残った。美濃では鎌倉時代から臨済宗が強くなり、それに宗旨替えしたお寺も多いんですね。郡上市などでは本願寺さんも多くなり、うちの町は臨済宗と本願寺さんが半々くらい。天台宗や真言宗のお寺は少なめで、あればかなり古い。それは大寺だから保てたんだと思います。

 密教系は美濃では古くからあった白山信仰と結びついたり、江戸時代からは御嶽信仰も加わった。印象では起源の古い白山信仰には未だ孤高の修験者色がありますが、御嶽信仰はもっと世俗に近いんすね。二大先達以前は白山と同様だったと思いますが、良い意味でライトで個人の精神鍛練の意味合いは薄れ  現世利益のジャンルも生まれた。明治時代に今の姿になった日乃出不動尊には大黒さまがいたりデカい5円玉の石碑がありますが、合格祈願や商売繁盛祈願の分野が出てきたんすね。それはここにもありますが、山中不動院はまだストイックかな。

( * ̄▽ ̄)v- 信仰の世俗化はこんな形でも現れる↓ あちこちのお寺で見かけますが、よその地域はどうなのかな。石の重さで願い事が叶うかどうか占う「おもかる様」はまさに民間信仰ですよね。修験者でなく里民のためのもの。起源は原初の磐座信仰でしょうが、里民に分かりやすい身近なもので、こういうのが信仰の世俗化なんじゃ。


(* ̄ー ̄)v- 世俗化って言葉は悪い意味ばかりではないですが、明治新政府が神仏分離令を出したのは「迷信の排除」のためでもあったんすね。悪い意味の世俗化には無闇やたらに終末観を煽ったり多額のお布施を要求したり、医療が必要なのに加持祈祷に偏って信者を死なせてしまうことが含まれるから。そういう「世俗化の負の側面」は確かにあったろうし、現代でも無いとは言えませんね。そこは肯定できない。

 閑話休題。山国ではけっこうあるあるだと思いますが、岐阜県にも新興教団がいろいろあるんすね。御嶽教は無闇に布教せず個人の精神修養を旨としているイメージで、うちの方では本当に路傍や裏山に霊神碑がぽつりぽつりと立ってるくらい。

( ; ̄▽ ̄)v- それがここに来るとダーツと並んでて、分譲地であったりするのがとても不思議。山中不動院はまだひっそりしてますが、日乃出不動尊は絶賛稼働中。ここも絶賛稼働中ですがラスボスの年季は他の二不動の比ではありません。ここでこうなら、ご神体の御嶽山のふもとの霊神碑二万基はどんだけなんだろう?


( * ̄▽ ̄)v- 路傍や裏山ではまず見られないのは数だけでなくその様式。こちらでは単に石碑に名を刻んだの霊神碑だけでなく、亡き先達さんの姿を刻んだものが多いです。初めて来た時は何事だと思った。子供の頃から何気なく見ていた霊神碑と違いすぎて、同じものだと思えなかったんすね。↓こちらは中央に先達さんで、周りがほぼ全部不動明王。凄いですよね。
 

 奉納の幟旗には龍王や木曽駒ヶ岳の保食大神のものも混じる。属する講の名前が入っていて、企業名や個人名も多いです。県境が近いのと、大先達の覚明行者が尾張の人なのは無関係ではないですね。犬山市や小牧市、江南市などの北尾張にも講や信者さんが多いよう。うちの方ではレアだけど、この辺りでは盛んなのだなぁ。


 ここは圧巻。写実的な石像が集まっている区画で、おそらく小さくはない講の先達さんたちがやすらっておられます。


 知らずに通りかかると珍スポットにしか見えませんが、行者さまの群像と分かると見る目が変わります。すごくリアルに彫られてますね。装束も様々で、各々の望む装いと姿を彫ったものじゃないかなと。


 この印を結んでる好々爺ぽい先達さんが好き。今は神道に属しますが「細かい事はいいんだよ」的でほっこりします。


 いちばん上には摩利支天。ここでは猪に乗った女神の姿で表されてます。御嶽山の別峰・摩利支天岳の女神です。


 その左には不動明王で、右側には倶利伽羅剣。剣に巻きつく黒龍の姿で表され、不動明王が持つ剣です。こうして単体で刻まれる事も多いんですね。犬山市の大縣神社の上の「奉天行者の岩窟」であれ?と思い、ここでも見たと思ったのが調べたきっかけでした。煩悩を断つ剣ですね。


 その近くには「三之池摩利支天」。摩利支天岳から来た岩が祀られており、摩利支天教という文字がある。なるほど摩利支天を祭神とする派もあるのですね。だからこの先達さん群像のいちばん上におわすのか。それでも不動明王と倶利伽羅剣が脇侍になっているのだな。


  参拝者が撫でるから表面がつややか。鮮やかな緑色が見えるけど、これは何と言う岩石なんだろう? 火山性の流紋岩だろうか。


 この先に奥の院。ここがいちばん古いところで、平安時代に不動明王が刻まれた岩屋があるところ。鳥居をくぐると岩壁に年季の入った石碑や霊神碑が並んでます。


 ここにも倶利伽羅剣。これを不動明王と見る事もあるようです。各務原アルプスの大岩不動では岩窟の中にこれがあったような。滝行の滝がここにもあり、こちらの方が古いです。