本堂などがある境内入り口にも不動明王像。ここからまた沢山見られます。
祠の脇にも不動明王。とにかく多いのでいろんな像容を見比べられます。立像もあり坐像もあり、素朴なものや写実的なものと様々です。
祠の裏に山茶花の林があり、ここからも尾根上に登れます。いったん下りて奥に進むと岩場を通る道があり、トレラン大会のコースにもなっている。まだ山茶花の花がたくさん咲いてました。
( * ̄▽ ̄)v- ここを下るのですが、山茶花が満開だと花の森。下から見上げるのが好きです。
駐車場から白と黒の寒々しい景色を通って来たのでここの鮮やかさがとても新鮮。山茶花の花は散っても散っても次のつぼみが控えていて、1本の木にどれだけの花を咲かせるんだろう。
( * ̄▽ ̄)v- 雪をかぶってないところはひたすら明るい。ほっとする眺めでした。
奥に進むと手前に本堂、奥に社務所。ここを通りすぎると再び霊神碑の分譲地があります。
本堂前の手水舎の水が凍ってて、ひしゃくも凍りついてて持ち上げること能わず(涙) 普段なかなか見られない光景でした。
開放されている本堂。ご本尊の不動明王は奥の院にありますが、ここにも厨子の中にあるのかな? 護摩壇があり真言宗や天台宗の本堂のようですが内陣にあたる場所に鏡もある。額に写真が掲げられており、それは近代の中興開山の先達さんのようです。
(* ̄ー ̄)v- 山伏姿と僧形。尾根の向こう側にも大岩不動尊という霊場がありますが、そちらにはもっとこう仙人のおもむきの行者さまの写真があったような。今の目で見ると奇異に映るかもしれませんが、山を霊域・神体とする信仰はそもそもこいうものだったのかもですね。今の御嶽教も区分は神道ですが、九字を切り真言を唱えるものだそうです。
手水舎の隣に「東司建設事業 趣意書」という看板があり、東司とはお寺のトイレのことで七堂伽藍のひとつに数えられるものだそう。
(* ̄ー ̄)v- 物知らずなので検索したらトイレを東司と呼ぶのは曹洞宗に多いとあり、臨済宗だと雪隠なのだとか。ここは明示はされてないけど真言宗に依ると思うのですが、真言宗だとダイレクトに「高野」で、それが「厠」に転化したのではないかとの事でした。空海が開いた頃の高野山は山中の川で用を足していたそうで。
でも細かい事は気にしない。ちょうどこの看板の向かい側でバリアフリーのトイレが新設中なのですが、この看板に迫間不動尊の縁起が書かれています。ここは823年(弘仁14年)に智証大師円珍が訪れ不動明王像を刻んだのが始まりとあり、この円珍という人は第5代天台座主なんですね。最澄や空海と同じ入唐僧で、最澄が入唐した時に通訳として同行した義真(初代天台座主)に師事した天台僧。比叡山の山王院に住し、天台宗が山門派と寺門派に分かれた後は今の滋賀県大津市の圓城寺(三井寺)を寺門派の拠点としました。
(* ̄ー ̄)v- 三井寺には日本三不動のひとつの「黄不動」があるんですよね。像でなく図画で、全身が黄金色の不動明王。これも智証大師円珍が感得したものなのだそう。てかやっぱりここの始まりは天台宗で、それがいつしか弘法大師を戴く真言宗系になり、さらに御嶽信仰の場になったんですね。混沌(カオス)、いや調和(ハルモニア)か。感覚的にはすべてを緩やかに包括して今ここなのかなと。
本当に智証大師円珍が訪れたかは分からず、そういう事は美濃国に横蔵寺や願興寺といった「伝教大師最澄開基の古刹」があるのと同様かも。必ずしも大師位の高僧が直接開いたお寺ではないかもしれませんが、そう伝えられる事に意味があるのでしょうね。それは真言宗の弘法大師像があまりにも各地にあまねく建っているのと同じかも。
かと思えば法華日蓮宗の宝塔が立っていたりする(混乱) 明治の神仏分離以降はお寺はお寺、神社は神社、あまりに不可分なモノは整理整頓されましたがなだらかにそのまま残ってたりします。ぱっと思い浮かぶのは牛頭天王や九頭竜で、大明神とか権現とかで包括されるカミホトケ。私はそういうのは息苦しく分別されてなくていいなぁと思いますね。ぱっと見ではここの宗派何やねん?ですが興味深い。