墓地にはかつての領主・奈良井義高のお墓もあるそうですが、墓地の入り口のすぐそばに「マリヤ地蔵尊」の祠がありました。


-v( ̄○ ̄;) 大きいな。


岐阜県の御嵩町で見つかったのは肌守りとして身につけていたり柱をくり抜いて忍ばせていた小さな石のマリア観音像や、十字架を陰刻・陽刻した自然石や神社の拝殿の板の裏に「天主之拝」と墨書きされていたものですが、このお地蔵さまは高さは80cmくらいだろうか。人型をしたものでは御嵩町の遺物よりはるかに大きかったです。


大お庫裏さんが「昭和の初めに見つかったもので、お首を落とされて埋められていたそうです」と言っておられた。説明書きには昭和7年に藪の中から見つかったと書いてありました。


-v( ̄○ ̄;) 子守観音をお地蔵さんにしたものだそうで、抱かれてる赤子が持つ蓮華(ハス)の花が十字架の形をしているという事で、確かに十字架のようにも見えるな……


岐阜県(東美濃)の御嵩宿に潜伏キリシタンの遺物があると初めて知った時は、織田信長が寛容だったから中山道伝いに美濃から伝わったと感じたんですが、信仰が伝わったルートはもう少し複雑なよう。禁教令が出てから1600年代に「濃尾崩れ」という尾張・美濃の信徒の大量摘発がありましたが、発端になったのは今の可児市の塩という地域で、そこの信徒は犬山経由で潜伏キリシタンになったよう。


初代の犬山城主がキリスト教に寛容だったからだそうで、信長の時代から少し下がる。禁教に厳しかった徳川家康の家臣なので少し意外だけど、濃尾崩れで摘発された美濃太田宿の信徒は可児市塩の信徒と縁戚関係で、そこから芋づる式に捕縛されていったんすね。


( ̄ー ̄)v- でも御嵩宿の信徒はその芋づるに引っかからなかった。離れた地域の信徒には横の繋がりはあまり無く、縁戚関係でもなければ発覚しづらかった。だから御嵩宿の信徒は可児市塩ー尾張の犬山市とは違うルートから信仰が伝わったんじゃないかと言われてます。近隣で信徒がいないと思われていた地域からも遺物は見つかっており、中山道以外の伝播ルートは謎ですね。個人レベルでの広がりだったかもだけど。


( ̄ー ̄)v- 木曽の史跡はまだまだ不勉強だけど、奈良井宿だけでなく大桑村や木曽町にもあるのだそう。知ってどうするという訳でもないけど、興味深いすね。


いろいろ検索していると桃太郎伝説の鬼を宣教師に喩えた考察もあり、岐阜県の笠松ー塩ー御嵩ー中津川ー長野県の駒ヶ根ー木曽谷というラインが出来るとか。これもひとつのロマンですね。



首を落として埋めたのはいつだろう。潜伏キリシタンの摘発(崩れ)を回避したのではなく、もっと後の廃仏毀釈だろうか。でも古いお寺が5つもあって、廃仏毀釈まで行ってなかったような気もするけど………


とりとめなく考えながら墓地の奥、ちょっと山の上の奈良井義高の居館跡を見て、再び墓地を抜けて町並みに出る。ぼちぼち北端の「鍵の手」で、そこにはお不動さんの祠とやっぱり庚申碑がありました。