完全に趣味で閑話休題。


そう言えば立山黒部を踏破した歴史上の人物と言えば、戦国時代の武将・佐々成政。天正12年(1584年)の厳冬期の「さらさら越え」が有名です。


( ̄∀ ̄)v- 本能寺の変で織田信長が死に、佐々成政は反・豊臣秀吉の柴田勝家などにつきましたが、清洲会議で秀吉が擁する三法師(信長の孫/織田秀信)が後継者に決まってしまった。


それに納得いかない成政は、唯一秀吉に対抗し得る徳川家康に助力を仰いで織田家の再興をはかろうとしたのですが、領地は越中。家康は浜松におり、越後には上杉景勝。加賀には前田利家。とりあえず親・秀吉派で波風を立てたくない大名に挟まれており、かろうじて飛騨の三木頼綱が親・家康派。美濃はもう秀吉の領地になっていたので、北アルプスを越えて信州から浜松を目指すしかなかったんすね。


( ̄ー ̄)v- 今も最も積雪量が多い地域で、5月でも10mの雪の壁があるのが立山黒部アルペンルート。で、成政公が越えたのは大雪&火山性の岩がザラザラ崩れるザラ峠(佐良峠)。


探検家の角幡唯介氏が新聞記者だった頃、この「さらさら越え(佐々佐良越え)」をやりたいと企画書を出して却下されたと読んだ事がありますが、戦国時代にそれをやり切った佐々成政は「戦国を代表するアルピニスト」と呼ばれたりします。


( ̄ー ̄)v- あまりにも過酷なルートなんで言い伝えと思われてたら、家康側の記録に「熊の毛皮を着て野太刀をしょって目をらんらんさせて来た」という記述があり、相当数の家臣を失いながらも本当に来たらしい。残念ながら狸親爺は助力を断ったそうですが、佐々成政は立山信仰の守護者で治水事業にも熱心だったため、地元では慕われました。


( ̄∀ ̄;)v-「矢玉繁き所に立つよりは、遥かに易き道なるぞ」とは何というガッツの持ち主か。花の慶次では織田信長への忠義心が溢れてこぼれてましたが、だいたい合ってます。


そら瓶割り柴田(柴田勝家:籠城戦で貴重な水瓶を「こんなもんがあるから気が弱くなるんじゃ!!」と言って割った)と仲良しですわ成政公。今もやってる大名行列のルートは富山城→長野県の信濃大町までですが、浜松城まで行ってますから実際は。これでもプロジェクトXのテーマが聞こえてきそうな世界ですから。



立山黒部がホームだった成政公は、おそらく地元でも最高のガイド(山仕事従事者)の協力を得ていたはず。戦国時代なら奈良~平安時代よりは装備や技術はあったと思いますが、山の登頂が目的でなくても、こうした例はあるにはありました。