「大丈夫か」


振り仰げば戸口に義兄が立っており、智史はすっかりぬるくなった湯を両手ですくって顔に叩きつけた。


「うたた寝してた」

「だから言ったろ、後悔するって」


頬に冷たいグラスが押しつけられ、受け取って飲んだら麦茶だった。子供じゃあるまいにと顔をしかめると、「ビールなんか水分補給になるか」と吐き捨てられた。


「……坂下さんは?」

「ど素人を名古屋に送ってった。それよりお前、佳奈を歯医者に連れてく日だと忘れてたろ」


それを聞いた瞬間、ひとりでに口から「やばい」と声が出た。義兄は声をあげて笑い、「ケイビングで精根尽き果ててるから、予約を入れ直せと彩に言っといた」と言って無造作にタオルを頭に投げた。


「図面は見た?」

「どんな経緯で把握したかも不明な廃坑道図なんて話にならん。今は酒田土建が町の委託で廃坑に充填剤を流し込んで補強してるが、あいつは自分のところでやりたいのさ。いい“貢献”になるからな」


義兄はにべもなく言い捨て、「それよりもお前の話だ。穴を見せたら話すと言ったろ」とタオルで頭をぐしゃぐしゃ拭って出て行った。


慣れない岩下りや登りで腰が痛んだが、気持ちはずいぶん楽になっていた。鍛え方が違うにせよタフだなあと独りごち、風呂から上がって店に下りると豪勢な酒肴が待っていた。ーーー店屋物の鰻重と肝吸い、桶一杯の上寿司に日本酒。そこにトマトスライスに柔らかいチーズとサーモンを挟んで盛った皿とウオッカの瓶をつけ加え、義兄は「地域の皆様からのねぎらいだ」と呟いた。


「鰻は町長、寿司と日本酒は氏子一同から。面白くもない義理立ての駄賃にしちゃ上等だな」

「凄いね」


あまり酒に強くない智史はビールを選び、早くもストレートでウオッカを一杯空けた義兄のグラスに氷を放り込んだ。


「また潰れるよ」

「イカサマ喰らわされなきゃこんなの水だ。あの野郎、連盟の親父共が荒れると散々やった手口を俺に使いやがって」

「初めてやったと聞いたけど」

「白々しい。何度も見てる」


聞く限りではどっちもどっちだが、見た感じ何食わぬ顔でやる坂下の方が上手な気がした。正直あまり腹は減っていなかったが、好物のフレッシュチーズとトマトはよく冷えていて、口に入れると自然に笑みがこぼれた。


「鰻まで食えなかったら持って帰れよ。俺もいいから」

「うん」


頷いてビールを飲み箸を進めるうちに、何故だか笑いがこみ上げた。


「何だよ」

「……いや、端から見たら侘しいかなって」

「一杯のかけ蕎麦ほど侘しかねぇ」


義兄はそう吐き捨てたが、顔は笑っていた。このところ張り詰めていた気がほぐれて険が取れ、智史は少し安堵した。


「驚いたろ。もう出てくって言われるかと思った」


ゆっくりしたペースでグラスを空けながら、義兄がそう呟いた。「彩もあれは知らない。吉岡さんや弘樹は俺とあそこに遊びに行ってたから知ってるが、あとは氏子総代と爺さん世代だけだ」


「融さんは」

「あいつは知ってる。俺達について入ってて、一度あそこで死にかけた。だから俺らは親に半殺しにされて、もう入らなくなったのさ」


義兄はそう言って手酌でグラスを満たし、口に運んだ。


「……弘樹さんが“礼拝堂の先には行かない”と言ってた。あそこで終わりではないよね?」

「そんな事言ったのか、あいつ」

「坂下さんも気づいてた。何があるの」


義兄は溜息をつき、「だからあいつは入れたくなかったんだ」と呟いた。


「斎藤や柘植ならもっと勝手に動き回るが、あいつは無駄に動かずに見ていったん腹に入れるからまだマシだ。でも最近おかしい。あんなふうに他人の事情に踏み込む奴じゃなかった」


智史が黙っていると、義兄は困った顔をして三杯目に口をつけた。


「先にお前の話を聞かせろよ。それに関係があるなら話すから」


今度は自分の番だった。智史は言葉を探しながらゆっくり語り、語り進めるうちに義兄の表情が変わっていった。