「頂上まであと800m」はなまなかな体感距離でなく、岩場はないから気は楽ですが、緩い登りが延々と続くように感じました。


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ 半鐘とトンカチが木から吊してある。火事とか発破の時に鳴らすのかな?……


もう悠長に写メを撮ってる余裕がない。シトシト雨が寒いんだか暑いんだか分からないし、下手に立ち止まると動きたくなくなりそうで、黙々と丸木の段を登りました。


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ ……所詮は煩悩まみれで古(いにしえ)の修験者には及ばない。

ヾ( ̄○ ̄;)ヾ「そこに山があるからだ」なんて高尚なモンでもないわよね。だって怖いもん。


怖かったです。


黙々と歩くうちに視野は狭まり、頭はとりとめなくいろんな事を考える。もし滑って落ちて打ち所が悪ければ、携帯の電波も届いたり途切れたりする場所で一体どうなるか。


動けるにせよ、日が暮れてしまったらどうしようもない。山の入り口で見た貼り紙の行方不明者は私より若くて体力もある筈の男性ですが、それでも行方不明のまま。私の方がずっと危ない……


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ……1回目に岩屋から下ろうとした時に、熊除け鈴を鳴らして下りてく男の人の後ろ姿を見たなぁ。

ヾ( ̄○ ̄;)ヾ 黒い服だった。貼り紙の人と服装は違うけど、もしあれが彼だったら?………


まるで「心霊特番を見た後の、夜中にトイレに行く時にフラッシュバック」。ああアンビリバボー心霊再現ドラマのマイベスト、「雑木林に白いYシャツの男が立っていて、顔は向けずに目だけでこちらを見ていた」が脳裏にまざまざと。


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ 故人にしたら失礼だわ。でも、山の中で時間の流れが変になってる場所があって、偶然あそこだけ6年前になってたら?……


私にはいわゆる霊感というものはないけれど、やっぱり人は自分で恐怖を作り出すのかも。某巨大掲示板の登山キャンプ板には「山で幻覚を見るのは準備が足りない奴だ」という興味深い書き込みがあり、うん、確かにそうだ……


ヾ( ̄ー ̄;)ヾ 1mmも否定できません私。


これは帰りの話ですが、靄のかかった薄暗い木立の曲がり角に、ひと目見て白いYシャツにしか見えないヒラヒラがあった。登る時に見た覚えがなかったので凄く怖かったですが、近寄ってみると裏返った木の葉の集まりでした。


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ ……そういう事だな。


感じようと思えば木立の向こうから他者の視線を感じることもできるし、踏みしめる岩の隙間から見上げる目と目を合わせることもできるだろう。それは自分が「そうなったら厭だな」と考えてるから。疲れて視野が狭まって、頭がふっとそっち方面に集中しちゃうからかもしれないっすね。


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ……修験道って、ひょっとしたらそういうのを超越するためにあったのかな?


あれはなあ、ちゃんと修めようとしたらかなり自分を追い込んで「99%は準備」の領域だろうなぁ。あと大阿闍梨の千日回峰。あれはヒトが身体的にも精神的にも限界を超えなきゃできない……


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ こんな低山でゼエゼエ言ってる山姥がおこがましいけど、それが“無我”か。疲労や憔悴の極みまでは煩悩や邪念につきまとわれ、ある一線を超えれば余計なことは考えなくなる?…………


ヾ( ̄○ ̄;)ヾ……実践する信仰。それとさえ意識しなくなる「行」………ゼエゼエハアハア。


某巨大掲示板の登山キャンプ板には相反する興味深いスレッドがあって、1つは「山で見かけた自分に酔ってそうな人を報告するスレ」で、もう1つは「山登りは1人がいい」。


ヾ( ̄ー ̄;)ヾ 前者は非常に身が引き締まる内容ですが、「お前らは分かってない。これを全部読んで何も感じなくなった時、俺らは一歩成長するんだ!」って名言もあった。


後者は単に「1人の方が気楽」でもあるんですが、絶対にナルシス入りますからねコレ。前者との併せ技で山頂でギター弾くとか、「藤岡弘隊長のようにコーヒー沸かして飲もうとしたら、標高が高くて沸点低すぎて生煮え」とか、ギターはともかくコーヒーは私もやりかねん。


ヾ( ̄ー ̄;)ヾ ……趣味の登山にせよ信仰登山にせよ、個人的な行為には違いない。当たり前なんだけど、とりとめなく考えてしまうわゼエゼエハアハア。


あ。


視線の先に、うわあコレ何て最果ての地、じゃなくて頂上が見えてきた。白い靄がさーーっと流れてる。やっと着いた……………


天気が良ければ劔岳や立山、木曽御嶽や白山、近場の伊吹山が一望できるよう。でも全方位真っ白で何も見えません!


ヾ( ̄∀ ̄;)ヾ いいんだ、分かってたから。



今日は登り切ることが目標だったから、これで満足。頑張ってよかったです。