“エヴェレストは、世界の物理的な力を体現したもの。エヴェレストに対峙した時、彼(マロリー)は勇気を吐き出さないわけにはいかなかった。”


( ̄ー ̄)v- 1800年代のチベット方面の探検家で、英国王立地理学会会長、1924年には遠征の母体のエヴェレスト委員会の会長だったサー・フランシス・ヤングハズバンドの言葉。


“彼は自分の成功が登山仲間全員に巻き起こす興奮を想像した。英国にもたらされる栄養、全世界にゆきわたる関心、当人が我がものとする名声、いつまでも持続する、自分の人生に対する充実感……”

“たぶん、はっきりと意識する事はなかっただろうが、しかし、心の中にはいつしか「一か八か」の気持ちが生まれていたに違いない。”

“三度(みたび)引き返すか、それとも死ぬかという二者択一を迫られる中で、マロリーにとっては、後者を選択する方がおそらくは楽だった。前者のもたらす苦しみは、人として、登山家として、そして芸術家として、彼が耐えられる以上のものだったろう。”


( ̄ー ̄)v- この人は軍人で、まだ大英帝国がブイブイ言わせてた頃にチベットに侵攻し、虐殺を指揮したとして非難も多い。神秘なるチベットで「選ばれし俺イズム」に染まっちゃった人なので、弔辞も何か大言壮語です。


しかし英国のヒマラヤ登山史は確かにそんな帝国イズムに端を発しているし、ナンガ・パルバットに血道を上げたドイツも同様。(総統閣下も相当かぶれてた)
しかしマロリーの最後の登攀に関しては、純粋に登山のみを見る同業者からも「引き返す選択肢はなかったんだろう」と語られました。


( ̄○ ̄) ……登山家としてのマロリーと20年近く付き合って分かった事から、私は次のように言うことができる。


これはマロリーの長年の友人で、クライミング・パートナーだったジェフリー・ウィンスロップ・ヤングの言葉。


( ̄○ ̄) ……それは(途中で引き返す事)は難しい。というのも、唯一の困難をあとにしたが最後、引き返す事は難しいから-----いや、マロリーにとって、それは不可能だ。


そこには既に故人になったマロリーを悼む気持ちが込められており、死者に鞭打つような意味合いはない。(だからこそ英国、およびマロリーを敬慕する登山家からは「きっと彼らは登頂してから遭難したのだ」という判官贔屓に似た意見や、「登頂したか否かは不可知のままにしておいた方がいい」といった慰撫的な意見が出ていました。


( ̄ー ̄)v- ラインホルト・メスナー御大は「登頂できなかったろう」ですが、この調査遠征隊に対しては「マロリーの遺体写真で商売しやがった」と批判的。(そもそも営業登山隊に批判的)


( ̄ー ̄)v- サー・クリス・ボニントンは「登頂の是否は問わなくてもいいだろう」という意見。登山家には国は違えど、エヴェレストに挑んだ先人への敬意は共通してあるんすね。表し方は異なっても。


マロリーの判断(アーヴィンにはおそらく、進むか退くかの判断はできなかった)を「是非」以外の目的で捉えようとする動きは長いあいだ机上の議論の域を出ず、実際にエヴェレストに登って確かめようとしたのは1980年のトム・ホルツェルが最初でした。


しかしホルツェルは悪天候のため調査区域まで登れず、彼の著者から「真実を知りたい」と感じたヨッヘン・ヘムレブが後を引き継いだ。遭難の責任を問うためではなく、「そこには必ず教訓があるはずだ」って信念は、次の世代からしか表面化させられないものかもしれないですね。


( ̄ー ̄)v- CLIMB THE MOUNTAIN.しばしば山はあらゆる困難に喩えられますが、「重き荷を担いで長き坂を上るがごとし」といった個人の人生や、人ひとりの寿命が尽きる年月では容易に変えられない「時代ごとの価値観」に通じるものがあるのかも。


( ̄○ ̄) ……過去の登攀では、マロリーは時間が遅いことを理由に引き返す事ができた。


だが、後のコンラッド・アンカーの登攀により、マロリーはセカンド・ステップの上部岩壁を登り切った可能性が出てきます。(マロリーが登れたならアーヴィンを誘導できただろうし、途中で待たせたかもしれない)


( ̄○ ̄) ……でも、もしそうならば、オデールが証言した「セカンド・ステップのてっぺん」ではなく、そこから岩場の上の縁を右寄りに辿ったどこかになる。


ならば問題は、もはや「ファースト・ステップかセカンド・ステップか」という話ではなくなる。ヘムレブは遙か高みにいるデイヴ・ハーンとコンラッド・アンカーとの無線でのやりとりや、これまでに溜めた知識をフル回転で分析し、「可能性のある地点が1ヶ所ある」と気付きました。


( ̄○ ̄;) ……セカンド・ステップを越えていたのなら、そこで時間がかかりすぎたのを考えて引き返しただろうか?……過去には引き返してる。だが、マロリーの登山歴には「性急な傾向」も指摘されている………


( ̄○ ̄;) セカンド・ステップを越えれば、テクニカルで困難な登攀はもう済んでる。前方には頂上に向かって雪の斜面が広がり、多少の起伏はあるがやり過ごせる。

( ̄○ ̄;) ……その先に頂上が、手を伸ばせば届きそうな場所に頂上が見えていれば、退くかどうか、行き着くところは「性格」だ。


それについてはサイモンスン隊長も「数回目に登頂するまで、後になればなるほど退く決断は難しかった」と述べていた。そして登攀隊長のデイヴ・ハーンも、こんな事を明かしていました。


( ̄○ ̄) ……私はこれまで「慎重なリーダー」という評判をとってきた。途中で引き返した経験は数知れない。

( ̄○ ̄) しかし、あの日は私も性急だった。照準をきっちり頂上に合わせると、セカンド・ステップから先は、行く手を遮ろうとするものを何ひとつ見ようとしなかった。


デイヴ・ハーンはこの日、セカンド・ステップから頂上までの所要時間を2時間だと考えていた。しかし実際には倍の4時間をかけており、「これは危険な判断ミスだった」と認めていました。


( ̄○ ̄) 1924年にオデールは登っていく2人を見て「登頂までにあと3時間くらい」と予測した。これは1999年の私と同じ判断ミスだったかもしれない。

( ̄○ ̄) 私とアンカーは帰れた。だが同じ判断ミスがマロリー達にもあり、彼らの場合には致命的だったという可能性は大きい。


致命的な判断ミス。写真は1996年の南東稜の大量遭難の当事者だったジョン・クラカワーが書いた「空へ」という本ですが、この時、北東稜でも遭難事故が起きていました。


5月10日の午後4時、インド北部のラダック地区出身の3人のクライマーが北東稜から登頂しますが、標高8300mの高所キャンプを出たのは午前5時45分で、少し遅かった。


午後の半ば、まだ頂上までに300mほどある場所で、彼らは南面を地獄に変えたのと同じ嵐に捕まる。はじめは6人だったアタック隊のうち3人が撤退しましたが、残りの3人は強引に進んだ。撤退した隊員は、「彼らは登頂熱に浮かされていた」と明言します。


彼らは午後4時に「登頂した」とベースキャンプに無線を入れますが、実は猛吹雪で視界が悪く、8700m地点を頂上と勘違いしていました。


その後日没から少し経った後、北東稜の下部にいたクライマー達が「セカンド・ステップの上にヘッドランプの明かりが見えた」と証言しますが、3人のインド隊員は高所キャンプには戻らず、無線連絡も途絶えます。


( ̄ー ̄)v- ……この時、北東稜には日本隊のクライマーもいました。3人のシェルパを連れた2人の日本人クライマーは、ファースト・ステップを登った先で、雪に埋もれて横たわり、ひどい凍傷にかかったインド隊員を見つけます。


この時「日本隊は救助活動をしなかった」という批判がインド-チベット国境警察隊(遭難した隊はここからの遠征だった)から起こり、一時期は国際問題になりかけます。


日本隊のクライマーはあと2人のインド隊員も見つけます。1人はすぐに息絶えそうで、もう1人は雪の中にしゃがみ込んでいましたが、荒天の中で自分たちにも余裕はなく、出来る事はありませんでした。


日本隊は嵐の中で登頂し、セカンド・ステップの降り口でもう一度2人のインド隊員の脇を通る。1人はまだ生きているように見えたが、固定ロープに絡まり虫の息だった。それを見た日本隊のシェルパが絡まったロープを解いてやり、出来たのはそれだけでした。


( ̄ー ̄)v- クラカワーは後の経緯を知る前に本にそう書いていますが、この「非道」はインド-チベット国境警察登山隊の顧問さんの主観が多分に入っており、日本隊はその発言内容の疑問点を列挙して回答と謝罪を求めます。


日本人にもやればできるもので、その結果、インド-チベット国境警察の長官は「日本隊を非難することはできない」という公式見解を発表。日本隊非難の火点け役だった顧問さんは引責辞任します。


( ̄ー ̄)v- ……だが日本隊のアタックも性急で、登頂前後はこちらも生きるか死ぬかだった。悪い条件下で登頂にこだわる事は、苦い経験と背中合わせかもしれない………


プロでさえ判断を誤り、退き際を弁えられない。これは投資家なんかも似たところがあるような気がしますが、登山だと命さえ失う…………



調査遠征隊が求めるものはあくまでも具体的な「マロリーとアーヴィンの遭難の謎解明」なんですが、それを読む側には、また別にいろいろ思うところがありそうですね。