すみません完全に趣味で載せました。1枚目は1996年5月の南東稜での大量遭難を描いた映画『エヴェレスト』のパンフレットです。


(; ̄∀ ̄)v- 萌えというものはそれに興味のない方には不可解でしかありませんが、私にとっては「これでたぎらんで何処でたぎるんだ?」という構図。あああむっさいオッサンが、登攀器具を腰にジャラジャラ着けてるぅううう!!………


2~3枚目は角川書店のビジュアル博物館シリーズの「山」より、フリークライミング・ロッククライミング・氷壁登攀の違いetc.体一貫で勝負するフリークライミングも大変そうですが、私はとにかく重装備の氷壁登攀にロマンを感じてしまいます。


3枚目は先日イッテQでイモトが登り切ったアイガーを連想させますが、この項にも解説が載っている「逆飛び込み」を、サポートの山岳ガイドが「いざとなったらやる」と言っていました。


-v( ̄ー ̄;) イモトとザイルを結んでたガイドさんが、両側がナイフのように切れ落ちた稜線上で「お前が落ちたら反対側に飛び込んで滑落を止めるから大丈夫」と。………基本らしいけど、スゴいなと…………


閑話休題。まだ真っ暗闇の午前3時にイエロー・バンドの基部に到達したクライマー達は無言で腰のクライミング・ハーネスを締め直し、身につけた金属製のカラビナやビレイプレート(身体確保具)を鳴らしながらロープを手繰ります。


( ̄○ ̄)/ よし。


コンラッド・アンカーが先頭に立ち、イエロー・バンドを割って稜線まで切れ上がる岩溝に取り付く。彼がハーケンを使って岩に固定ロープを設置して、他の隊員がそれカラビナで腰のクライミング・ハーネスに通す。そうすれば安全に後に続けます。


でも上部に積もった新雪が崩れやすく、全員がいっぺんに巻き込まれないように1人ずつ攀じ登るため時間がかかる。彼らは午前4時半にイエロー・バンドを横切って中ほどまで登ったところで休憩を取りますが、そこで雪面から何かが突き出しているのに気づきます。


( ̄○ ̄;) ……金属と何かの繊維だ。キャンプ跡か?


後で調べてみると、木製のテントポールとロープの切れ端、金属製のパック・フレーム、古い寝袋やテントの布地が出てきました。ベースキャンプでそれを知ったヨッヘン・ヘムレブは喜びます。


(* ̄∀ ̄) それは1933年の英国隊の最終キャンプ跡だ。1960年の中国隊に参加したシェルパが、「イエロー・バンドを越えた先の8500m地点で見た」というキャンプ跡の残置物とピタリと一致する。

※しかし後に、1933年の英国隊はその辺りに最終キャンプを置いていなかったことが分かる。公式記録では1960年までにその高度に達したのは英国隊しかなく、ロシアが公式に認めていない「1952年のソ連隊」の可能性が出てきた。


場所はファースト・ステップの手前で、この時はまだアタック隊員たちは「マロリーとアーヴィンは第6キャンプより上にはテントを持って行かなかった筈だが……」と感じたくらい。第7までキャンプを設置していた時代もありますが、最近は「そこで休むだけで消耗が激しすぎるから」と、第7キャンプは置かないそうです。


アタック隊は登高を再開し、午前6時に北東稜の稜線に達する。ようやく夜が明けましたが冷え込みはきつく、空を見上げた隊員たちは表情を曇らせます。


( ̄○ ̄;) ……南西から分厚い雲が近づいてくる。

( ̄ー ̄;) 山頂の上にはレンズ雲ができかかってるな。


4枚目がエヴェレスト(南東稜)の上にかかるレンズ雲。これはたいていは2~3時間後の天候悪化の予兆なのですが、ややこしい事に「好天の兆し」でもありました。


(; ̄○ ̄) 山頂の上にできた雲は、山の風下にできた雲よりも、自然からの警告としてはずっと深刻だ。


荒天になれば先日のウクライナ隊の二の舞もあり得る。彼らはしばらく議論を交わし、「少なくともファースト・ステップまでは行く」と決めました。


p( ̄○ ̄;) ファースト・ステップに着くまでの間に天気の変化を見られるし、そこまでなら退却不可能な場所ではない。


( ̄○ ̄)q 分かった。


登攀隊の決定を前進ベースキャンプ(C3)で聞いたサイモンスン隊長は同意する。彼は「そろそろ遠征終了の潮時で、これが高所へ行く最後の活動だろう」と感じていました。


( ̄ー ̄) ……アタック隊員たちは高すぎる場所にあまりに長く留まっているし、ウクライナ隊の救助でも消耗してる。もうこれ以上、遠征を引き延ばす訳にはいかない………



しかし今回のレンズ雲は良い方の前兆で、アタック隊は北東稜の稜線上をファースト・ステップを目指して進みます。この辺りはいっけん平坦な雪田に見えますが、実は薄っぺらい雪庇(崖の端に積もった雪が庇のように虚空に張り出している)で、悪名高いカンシュン・フェースに面していました。


( ̄ー ̄)v- エヴェレスト東壁のはるか下、カンシュン氷河に面した斜面だから「カンシュン・フェース」。雪庇を踏み抜いたら3000mほど転落すること間違いなしの難所です。


彼らはそこを慎重にやり過ごし、稜線から離れて右側にトラバースして、北壁のかなり急な部分を渡ってファースト・ステップ(8500m)の基部に着きました。


( ̄○ ̄)/ ちょっと待ってろ。


再びコンラッド・アンカーが先頭で岩に取り付き、新たな固定ロープを張りながら岩溝を上がって割れ目(クラック)伝いに登って岩壁の上に出る。それからまた1人ずつロープ伝いに登っていきます。


(; ̄∀ ̄) 岩壁登攀としては比較的易しい場所だが、露出感は満点だ。あんな所で全方位パノラマの景色を眺めながら順番待ちなんてまっぴらだね。


とは登攀隊長のデイヴ・ハーン談。高所恐怖症の人なら心がバッキバキになる眺めだそうで……


これは北東稜から北壁をトラバースするルートですが、マロリーとアーヴィンがこのルートを採ったかどうかははっきりしていません。マロリーは岩稜の稜角伝いに登るのが好きだったそうですが、ロッククライマーのコンラッド・アンカーはこう考えていました。


( ̄○ ̄) 彼だったら稜角伝いの直登ルートにこだわって取り付き、登り切れただろう。

( ̄○ ̄) 少なくとも初めのうちは稜角伝いに楽々登っていけただろうが、多少は迂回したり乗り越えたりしなきゃならない場所がある。でも、彼の登攀歴から考えれば、登れないことはなかったと思う。


1924年の英国隊では、マロリーより年長のノートン隊長が実際に北壁をトラバースして、もう少し直登すれば稜線に出る地点まで来ていた。マロリーならもっと登れただろう……



オデールがマロリーとアーヴィンを最後に見た時刻は午後12時50分。早朝に第6キャンプを出て「8時には稜線上にいる」予定だったにしては遅すぎましたが、それはファースト・ステップまで北壁を直登したからだろうか?


いやそもそも、オデールが最後に見た彼らはどこにいたのか。北壁を直登してファースト・ステップを登り始めたところだったのか、それとももっと高いところにいたんだろうか?………