1枚目は「これぞエヴェレスト北面」というクリアな写真で、北壁と呼ばれる斜面と北東稜、そして中腹辺りに北峰のチャンツェ(7553m)も写ってます。


( ̄∀ ̄)v- エヴェレストは正確には山群で、世界最高度の8848mはその主峰。頂上からは南東稜・西稜・北東稜の3つの稜が伸びており、それぞれの先にクーンブ氷河・カンシュン氷河・ロンブク氷河という3つの氷河が伸びています。


それぞれの稜からは山群を形成するピークが分岐してそびえ立っており、オマケの峰と呼ぶにはあまりにも高い。北東稜から分岐したチャンツェは標高7553m。そして南東稜側から分岐したローツェ(8511m)やプモリ(7145m)、西側のヌプツェ(7879m)の知名度が高いです。


( ̄∀ ̄)v- 本から撮った白黒の写真だと分かりにくいけど、稜線に沿った黒線が1924年のマロリーとアーヴィン、そして1999年の登頂隊が辿ったルートです。(古典ルート、マロリールートとも呼ばれる)


カラー写真でも分かると思いますが、頂上の下、サード・ステップの真下に深く長い溝がある。この巨大な岩溝(ガリー)は大クーロワール(グレート・クーロワール)と呼ばれており、1924年の英国隊のノートン隊長は稜線上ではなく、この大クーロワールの最上部(8572m地点)でリタイアしていました。


( ̄ー ̄)v- 戻ってきて「酸素なんかいらん!飲む物をくれ!」と言った時の到達点。もし酸素ボンベを使っていたら、この北壁から登頂できていたのかも。


北壁からの日本人初登頂は1980年、重広恒夫氏と尾崎隆氏。ノース・コルを経由して北壁から初登頂したのは1984年の米国隊ですが、1924年にノートン隊長が途中から1人でグレート・クーロワールの上部に達したルートはそちらに当たるかな。


( ̄∀ ̄)v- それ故に、グレート・クーロワールはノートン・クーロワールとも呼ばれます。登山家はこうして名を残す。生に涯てあれど名に涯てはなし。


マロリーは最後の頂上アタックではノートン隊長が採った北壁を横断(トラバース)するルートは採らず、北東稜上にまっすぐ出るルートを選びました。その先にはファースト、セカンド、サード・ステップがある………


第5キャンプを出て倦まず弛まず前進し、シェルパ2名を含んだアタック隊は6時間後に高度8200mの第6キャンプにたどり着く。そこでサポート要員として補給物資を荷上げしてきたアンディ・ポウリッツとトム・ポーラッドは隊から離れ、マロリーが眠る8160m地点に向かいます。


1924年にはここでマロリーとアーヴィンは同行してきたシェルパを下ろし、それ以後の登攀の記録はオデールの目撃談しかない。1999年の調査遠征隊のアタック隊員たちは第6キャンプで雪を溶かして夕食をとり、短い休養をとった後、真夜中に出発の準備にかかります。


( ̄○ ̄) 出発は午前2時。登頂した帰りは途中で日が暮れるはずだから、どうせ暗い中を行くのなら、まだ元気がある登りの方がマシだ。


登攀隊長で高所カメラマンのデイヴ・ハーンがそう判断する。(北東稜上で難度の高いクライミング場面を撮るにも都合がよかった)


( ̄ー ̄)v- マロリーも出発前日に「早い時刻に頂上に向かう」という伝言を、ノース・コルにいるノエル大尉に送っていた。しかし「ヒマラヤ登山における夜中の出発」という考えは1980年代の中ごろに定着したもので、1924年のマロリー達は明るくなるまで出発しなかった筈だと考えられてます。


( ̄ー ̄)v- ……それに2人は懐中電灯も緊急用のマグネシウム発光灯も第6キャンプに残していた。暗闇の中ではルートを探すことも出来なかったろう。日没前に戻れなかったとしても………


ヾ( ̄○ ̄;) 俺たちの役割は、ただ頂上に着けばいいってモノじゃない。重要な調査任務が2つある。


1つ目は、1本の古い酸素ボンベを見つけること。実はサイモンスン隊長が1991年に北東稜に登った時に、ファースト・ステップより下のどこかで「戦前の英国隊の物と言ってもおかしくないくらい古い酸素ボンベ」を見かけていました。


それは大きな岩の下に差し込んであった。それが見つかって、1924年の英国隊のものだと分かれば、当時の英国隊の酸素ボンベは最大流量(毎分2.2リットル)で4時間くらい保つと分かっていたので、見つかれば2人がどのくらいのスピードで登っていたかが大体分かる………


2つ目はさらに重要で、とくにロッククライマーでもあるコンラッド・アンカーの壁屋さん魂を占拠してました。


ヾ( ̄○ ̄;) 高さ30mのセカンド・ステップは上半分が垂直の岩壁で、今は1975年の中国隊が残したアルミ製のハシゴが使われてるが、そんなモンがなかった1924年に、マロリーとアーヴィンはあのバカ壁を登り切ったのか?

ヾ( ̄○ ̄;) もし登っていたのなら、その難度はどのくらいで、どのくらい時間がかかるだろう?

ヾ( ̄○ ̄;) 2人を最後に見たオデールは「力強くテキパキと登っていた」と証言したが、それは可能なのか?


フリークライミングやロッククライミングには登る壁や岩壁に難易度がついており、日本と米国は共通の「デシマルグレード」を使用。頭に5がついていて、5.1、5.2……と、小数点以下の数字が大きくなればなるほど難度は高いです。(最高難度は5.15a)


b( ̄ー ̄)d 俺が登って確かめる。


恐るべきことにコンラッド・アンカーさんは残置されてるハシゴはおろか、現在使われている補助器具も使わずに、セカンド・ステップをフリークライミングで「登ってみる」気まんまんでした。


(ノーT)v- 命綱なし。どんだけ度胸と体力あんのアンカーさん。これぞまさに壁屋の本懐………


午前3時の真っ暗闇の中、アタック隊はヘッドライトの灯りを頼りに頂上直下のイエロー・バンドの基部に到達します。



そのイエロー・バンドを割って稜線まで切れ上がる岩溝の最上部が、1924年にノートン隊長が達した最高点。そこから先は岩壁登攀の技術が必要なため、一行は各々の身支度に入ります。