ウクライナ隊の救助を終えた翌日、5月12日の午前11時から、調査遠征隊の頂上アタック隊がふたたび登高を始めます。


( ̄∀ ̄)v- 再掲しますが、隊員はマロリーの遺体を発見し埋葬までを担った6人のどプロ。いったんベースキャンプに降りて他隊の救援活動に携わった後、またイチから登ります。


彼らの目的はエヴェレスト北東稜の登頂を試みながら、その過程でマロリーとアーヴィンの最後の登攀にまつわる謎を解くことでした。


( ̄∀ ̄)v- 捜査の基本は現場百回。でも現場が現場なのでそう滅多に行けないし、行ける人間も限られます。


その日の夕方には彼らはノース・コルに続く氷壁を登り切り、7070m地点の第4キャンプに1泊する。75年前の6月4日にはマロリーとアーヴィンも同じようにしましたが、マロリーは体調が万全ではなかったようで、写真担当のジョン・ノエル大尉は気がかりでした。


( ̄∀ ̄;) ……だが、彼の決意のほどには畏れ入った。彼を頂上アタックへと再び送り出しているのは、その気力だった。

( ̄∀ ̄;) 彼はその仕事に牙を食い込ませ、本気になっている。その闘いに、彼は体力を最後まで出し切るつもりだ。


その前夜には、出発前のスナップ写真を撮ったノエル・オデールが、マロリーが武者震いしているのを見ていた。1924年の英国隊にとって、この最後のアタックは「最後の賭け」だったんですね。


2人は毎分1.5リットルで酸素を吸いながら、記録的な速さ(3時間)でノース・コルに達する。アーヴィンは「呼吸数は1/3に減り、ジョージと私は共にびっくりするほど元気だった」と、日記に書き残しています。


( ̄∀ ̄) 空は輝くばかりに晴れ上がり、日陰の気温は氷点下以上にならないものの、日向の気温は摂氏41℃にもなった。


しかし後の報告書では、オデールが「昼寝するには少し雪が降ってほしいくらいだが、降ればたちまち堅い岩の上で凍結する」と書いている。日が照っていても、足元は決して安全ではありませんでした。


( ̄○ ̄;) ……天気が不安定だな。


1999年の頂上アタック隊は、「テントの下の氷がそれまでそこに寝ていたシェルパの体型どおりに溶けて固まり、俺らの体型に合わなくて寝苦しかった」とぼやきながら朝を迎える。(大は小を兼ねなかったよう) 空は曇っており、軽く雪も降り出しました。


1924年6月4日にマロリーとアーヴィンは第5キャンプを目指して登り、1999年5月13日に調査遠征隊の頂上アタック隊が同じように登り始める。-----第5キャンプ(7800m)が存在する理由はただひとつで、それは「第4キャンプから登るクライマーは大抵そこで体力が尽き、日も暮れるから」。ただ単に風雪をしのいで夜明かしするための場所なので、極端な吹きっさらしの荒涼とした岩棚に、引っかかるように建ってます。


(; ̄∀ ̄) そこは北稜のギリギリの際で、上り斜面以外はどちら側もすっぱりと切れ落ちてる。段差が多くて全体的に傾いていて、いつも強風が吹いてる。フラフラとよその隊に挨拶回りするような場所じゃないよ。


とは1999年隊のデイヴ・ハーンさんの弁。彼らは後から登ってくるシェルパから補給物質を運んでもらっていましたが、シェルパ達はこの第5キャンプを嫌っていました。


( ̄ー ̄;) ここは危ないから長居したくない。明日は早く出て、途中でアタック隊を追い越して第6キャンプに荷物を置いて帰る。


しかし夜になって、強風を超えた暴風が到来。雪も激しく降り始め、デイヴ・ハーンは「翌朝に外を見なくても、今日は登れないと分かった」と語ります。


(; ̄ー ̄) 時速50kmから、瞬間的には100kmくらいの突風が唸りをあげてテントを叩いてた。吹雪で視界もきかない。動けないよ。


彼らは複数のテントに分かれていましたが、風が強すぎてトランシーバーでしか会話ができず、同じテントにいても話が通りにくい。


p( ̄□ ̄;) この天気じゃどうしようもない。1m向こうの奴にさえ怒鳴ってるんだから!


別のテントからトム・ポーラッドがトランシーバーでわめいていた。同じテントにいたデイヴ・ハーンとアンディ・ポウリッツは一晩中座ったままテントの壁に背中を押しつけて、潰されないように頑張ります。


翌日はさらに風が強くなり、時速130kmほどで吹き荒れる。第4キャンプにはシェルパが大勢いましたが、「もう無理!」と撤退し、サーダー(シェルパ頭)ともう1人だけが残ります。


シェルパ達が撤退するという事は、もし天候が回復しても、最高度の第6キャンプ(8200m)までの荷上げを望めないということ。そしてさらに深刻な問題は、停滞中の第5キャンプの食料がじきに無くなるという事でした。


1924年のマロリーとアーヴィンも、この辺りからシェルパを下山させて2人きりになっていた。1999年のアタック隊は無線で第3キャンプにいるサイモンスン隊長と今後の計画について議論します。


( ̄ー ̄;) ……どの道、6人のアタック隊員とシェルパ2人の全員が登頂できるほどの補給は期待できないだろう。


登攀隊長のデイヴ・ハーンはそう感じ、同じ考えだったアンディ・ポウリッツが「自分とトム・ポーラッドは第6キャンプまでの荷上げはするがそれ以上登らず、余った時間に金属探知器でマロリーの遺体周辺を調査する」と申し出ます。


( ̄ー ̄)v- アタック隊には高所カメラマンは2人おり、デイヴ・ハーンはBBCと契約しており、トム・ポーラッドはWGBH/NOVAの局員。個人的には登頂したかったポーラッドさんは、それでも「番組としては調査場面のウェイトは高い」と納得します。


( ̄ー ̄)v- アンディ・ポウリッツさんは登頂経験があり、それがまだない若いジェイク・ノートンやタップ・リチャーズに機会を譲った。中年組の心遣いが憎いすね。


( ̄ー ̄)v- 心遣い………………


もしかしたら1924年のマロリーは、若いアーヴィンに頂上からの景色を見せてやりたかったのかもしれないすね。酸素を使えば行けると確信していた。アーヴィンに対して、「連れて行ってやろう」「自分の背中を見て学べ」という感覚だったのかもしれない。



第5キャンプでの停滞は3夜で終わり、ようやく風がやわらいだ。1924年のマロリーはキャンプから調理用ストーブをはるか下に落っことし、1999年のアタック隊は滞りなく装備を身につけて、5月16日の午前8時に再び登高を再開します。