調査・捜索班が5月1日の夕方に第5キャンプに帰り着いた時、サイモンスン隊長は第3キャンプ(6460m)に。ヨッヘン・ヘムレブは高度5200mのベースキャンプにいました。


p( ̄∀ ̄) ヨッヘン、君は幸せな男だな。

(; ̄∀ ̄)q ………!!!


第5キャンプではテントに入った捜索班のクライマー達は「今日はもう閉店だぜ!」と倒れ伏し、中年組のデイヴ・ハーンがベースキャンプに無線を入れる。他の登山隊に分からないように言葉を選んだ連絡に、ヘムレブさんは目を輝かせます。


( ̄∀ ̄)v- きっかけは16歳の時に両親から贈られた、トム・ホルツェルの「エヴェレスト初登頂の謎」。それに魅せられた少年が、まだ26~7歳という若さで、当の英国にも成し得なかった「マロリー発見」を成し遂げました。


( ̄∀ ̄)v- そう言えば、ホメロスの叙事詩を読んでトロイア遺跡を掘り当てたハインリヒ・シュリーマンもドイツ人。子供の頃のワクワクを、ええ大人になって叶えるのは難しく、かつ羨ましいものですね。


翌5月2日、捜索班はノース・コルの第4キャンプを素通りして第3キャンプ(前進ベースキャンプ:ABC)に入る。そこで出迎えたサイモンスン隊長は彼らが何を見つけたのかまだ知りませんでしたが、真っ先に「ミスタ・ジョージ・リー・マロリー」宛ての封筒と手紙を手渡されると、たちまち笑顔になりました。


( ̄ー ̄)v- しかし順調だったのはここまで。調査遠征隊は「マロリーとアーヴィンの遭難の謎解き」のために実際に頂上まで登る予定でしたが、いったん全員がベースキャンプに引き上げた途端にいくつかの問題が発生します。


ひとつはBBCと共に隊に随行していた米国ボストン放送局(WGBH)のNOVAという科学番組の女プロデューサーさんが、遠征隊長のサイモンスンの了承を得ずに「マロリーの遺体発見」とメールで発信してしまったこと。


(; ゜д ゜) 何をしてくれるんだあのクソアマ!!


しかもサイモンスン隊長はそれをワシントン州の自分の会社から知らされる。ベースキャンプに戻れば世界中のメディアから取材の依頼が殺到しているし、複数いる他の登山隊にも全部筒抜け。


(; ゜д ゜) 遠征が終わってからにしろよ!! ウチは「マウンテンゾーン・コム」と報道に関する独占契約を結んでるんだ。違反した事になるだろうがアアアア!!!


遠征前と序盤ではBBC(英国組)が内輪で揉めていましたが、この大詰めでまさかの「いや米国組もなかなか」。スクープ掴んじゃうと抜け駆けするのは万国共通みたいです。


ヾ( ̄□ ̄;) 俺はもう喋らん!! 頂上アタック組と上に行く!!


「報道に関する独占契約違反」のトマホークを避けるため、サイモンスン隊長は契約先に不本意ながらマロリー発見のボイスメールを送り、さらに取材依頼が殺到する中ベースキャンプから離れます。


でも、これはまだマシな問題でした。もうひとつは「他隊の遭難」で、ここでもう何週間も一緒に活動しているウクライナ隊が危機に陥りました。


隊長はミスティスラフ・ゴルベンコというベテランで、1990年の国際平和登山隊ではソ連チームの一員としてエヴェレストに登頂。1997年にチョー・オユーでサイモンスン隊長と知り合い、友人になっていました。


( ̄ー ̄)v- 東欧の登山スタイルは「すばやく高所へ、荷物は軽く」だそうで、強靭かつプロ意識に徹した5名のウクライナ隊は、さらに無酸素で北東稜に挑んでいたのだそう。


しかし5月7日の夜、決して好天とは言えない状況で3人の隊員が8300mまで登り、翌日さらに天候が悪化する中を登り続けて登頂したものの、下山中に離ればなれになってしまいます。


雪が激しく降り出し、風もさらに強くなり、すぐに視界が効かなくなった。日暮れ近くに1人が8300m地点の高所キャンプにたどり着きますが、あと2人は北東稜の上部、8500m付近で夜を明かすしかありませんでした。


p( ̄○ ̄;) ……ゴルバックとコピトコが戻ってこない。救助を頼む。


ひとり高所キャンプにたどり着いたターセウルというクライマーは、夜遅くに無線で救助要請をした後、驚くことに自分で仲間を探しに行きます。彼は無酸素で登頂した後、命からがら帰り着いたキャンプからまた登り出し、ファースト・ステップ付近で翌朝に仲間の1人を発見します。


もう1人の仲間は見つからなかった。デス・ゾーンで一晩風雪に晒されたゴルバックは生きてはいましたが、雪盲にかかり、なかば氷漬けになっていました。


「エヴェレストの頂上付近まで行くとクライマーの疲労と酸素欠乏は甚だしく、本人が自ら動けない場合は、大抵そのまま放置されて死ぬ」


それが当たり前になっている場所ですが、探しに来たターセウルが再度イエロー・バンドを攀(よじ)り降り、上がってきた仲間を案内して再々度登ってくれたゴルバックは幸運でした。


(; ̄ー ̄)v- 仲間を案内した後、自分で高所キャンプに戻ったそう。ターセウルさん、どんだけ強靭。


ただウクライナ隊だけでは、重篤な状態のゴルバックを下に運べない。さらに幸運なことに、今回はもう少し低い位置にいた他の隊が援助を申し出ました。


( ̄○ ̄) 5月10日には、前進ベースキャンプ(6460m)には規模も実力もまちまちな遠征隊が10隊以上いた。多くは関わろうとしなかったが、ウチと、私の友人の率いる営業公募隊などが救援に出た。


1996年の南東稜の大量遭難の時にも、複数の遠征隊が自分たちの日程を変更して救援に出ていた。「道徳を云々する場所ではない」と言われる超高所でも、人間は捨てたものではないですね。


( ̄○ ̄;)/ 凍傷のクライマーが、午後10時頃に降りてくるぞ!


ノース・コルの第4キャンプに上がっていた調査遠征隊からはコンラッド・アンカー、ジェイク・ノートン、タップ・リチャーズ、アンディ・ポウリッツの4人が、救助経験のあるイタリア隊の1人と搬送システムの設置にかかります。


それを設置すれば、ここまで運び上げたスノーボートに遭難者を乗せて下まで降ろせる。寝袋にくるまれロープで引かれてきたゴルバックは虫の息で、ここでステロイド剤を注射されてさらに下降します。


ノース・コルの下ではトム・ポーラッドとデイヴ・ハーンをはじめ、シェルパやコック、他の遠征隊のクライマーが待っており、そこからの搬送に携わる。そこで仲間に付き添うウクライナ隊の1人を見たポーラッドは、強い衝撃を受けました。


( ̄○ ̄;) ……ウクライナ隊のローマン・コバルは、もう48時間以上も高所で瀕死の仲間に付き添っていた。彼自身も全身霜に被われてて、目はどこか遠くを見てた。

( ̄○ ̄;) ……いかにも休養と温もりが必要そうだったのに、彼は頑としてザックも他人に預けないし「私より救助に専念してほしい」って……気がつくとスノーボートの担ぎ手になっていた。ザックを背負ったままで。


凄まじいほどの意志の強さ。1名の犠牲を出したのは悪天候に構わず頂上に向かった無謀さの結果ですが、結束力とそれをあらわす行動力はあまりにも強靭。ウクライナは伊達じゃない………


写真は1996年の南東稜での大量遭難の際、重度の凍傷を負い、歩けるが雪盲で目が見えない生還者を他の人々がキャンプに誘導している場面と、キャンプでの応急処置、そしてスノーボートで降ろす場合はこんな感じ。


( ̄ー ̄)v- あんまり高い山だと、ここまでして貰えるのはかなりの幸運じゃないかなぁ。



他隊のメンバーやシェルパの協力もあり、瀕死のゴルバックは何とか一命を取り留める。その救助に関わった調査遠征隊の頂上アタック隊は翌週から頂上を目指しますが、その間ずっと、ウクライナ隊から得た教訓を思い出し続けます。