できれば映画のように1924年の英国隊と1999年の調査遠征隊の道行きを交錯させたいと思ったけど、それはなかなか(苦笑)


( ̄∀ ̄)v- ここからは1999年隊のターン。1枚目は調査遠征隊のクライミング・チームのさらに生え抜きの、頂上アタック隊員の皆さんです。


「遠征と言うと、私にはかなり脅迫観念があって、自分の思う通りにしなければいられないんだが……」


“高山登頂請負業”のサイモンスン隊長は、こう太鼓判を押していました。


( ̄∀ ̄) 今回は最高のクライマーを相手にしていたので、本当に必要な場面だけ、集中的に気を引き締めてかかるようにした。

( ̄∀ ̄) こういう山では、状況がいろいろに変わる。天候も変わるし、ルートの変更もあるし、隊員の体力もまちまちだから、いつも融通無碍でいて、新しい情報を取り込んでは決断をして、前進するしかない。


1996年5月の南東稜での大量遭難を描いた映画『エヴェレスト』では、営業登山隊というものの難しさが浮き彫りになっていました。高いお金を払って参加する顧客は、もちろんある程度の技量が前提なんですが、「お客さま」なんですね。


( ̄ー ̄)v- 登れる時期が限られたエヴェレストでどれだけ「実績」を上げるかも重要だし、お客さま全員を頂上までガイドできるとは限らない。自分だけならつけられる「見切り」をつけにくい。この辺の難しさが、大量遭難の原因の1つでした。


しかしこの調査遠征隊のクライミング・チームはサイモンスン隊長が呼んできたプロ揃いなので、隊長はずいぶん気が楽だったそう。本書著者のヘムレブさんは「サポート・クライマー」という立ち位置で、ノース・コルまでの調査や荷上げに携わりました。


隊は4月2日から登高を始め、悪天候やアクシデントにも見舞われず、順調にほぼ1日刻みでキャンプ設営を繰り返し、クライミング・チームは交代で登降して高所順応していきます。


( ̄○ ̄;) ………ん?


4月11日。第3キャンプとノース・コルの第4キャンプとの間を何度も往復していたアンディ・ポウリッツが、下りる途中であるものを見つけます。


( ̄○ ̄) 東ロンブク氷河の上部、およそ6630m地点で、何やら黄褐色の重なったものからゴラク(烏)の群れが飛び立つのが見えた。何だろうと思って近づいて、ぎょっとした。


それは英国製の古いテント・ペグやアイスピトン(テントを設営する際の固定具)、ロープ、ブリキ缶、エジプト綿製とおぼしきテントの一張り。かなり古い時代のもので、すべて氷の中で凍りついていました。


( ̄○ ̄;) ……1922年の英国隊のキャンプ跡だ。初春の暖かさで雪が溶けて、露わになったんだな。


ポウリッツは英国の第2次遠征隊の残置物だと思いましたが、数日後にヘムレブがやってきて、ちょっと違和感を覚えます。


(; ̄○ ̄) ……単一の遠征隊の残置物ではなく、3つの異なるキャンプの遺留品が混じってるんじゃないかな。


「どんだけ即座に思い浮かぶんだ」とツッコミたくなりますが、「自室は大学で専攻する地質学よりエヴェレスト関連資料で満杯です」なヘムレブさんは、灰色の脳細胞をフル回転させてこう考えます。


(; ̄○ ̄) 1922年の英国隊ではなく、1933年の英国隊のものと、1958年の中ソ合同偵察隊のもの、それに1975年の中国隊か、1981年のフランス隊のものが、氷河の移動によって一緒くたになってるんじゃ……


何このきめ細やかな年号と隊の国籍データ。エヴェレスト登山史好きすぎだろこの兄ちゃん。とりあえず1958年に、中ソ合同偵察隊なんて真っ赤な遠征隊があったのか雷電!…………


この発見は1924年の英国隊やマロリーとアーヴィンの遭難には無関係なものでしたが、ヘムレブさんは灰色の脳細胞のフル稼働を止めず、後に「その遺留品はすべて、あの議論の多い1960年の中国隊のものだ」と発表します。


-v( ̄○ ̄;) チベット側の登山口を独占してた時代だから、西側諸国から「フカしてるだろ」と疑問視された中国隊ね。北東稜から初登頂したという………


そんな義理もなかろうもんに、ヘムレブさんは中国隊の登山資料を突き合わせて精査して、記録写真から「確かに1960年に登頂している」と証明しました。(感謝状くらい送ってもいいと思うの、中国山岳界)


( ̄ー ̄)v- そのテントなどが1960年の中国隊のものと断定された根拠は、中国は1970年代まで旧式の英国製のテントを使っていて、1960年隊の記録写真に全く同じテント・ペグやアイスピトンが写っていたから。


( ̄ー ̄)v- 中国隊は登山装備を英国から買い入れていたのだそう。そして決め手は崩れて凍りついていたテントの残骸の中から見つかったピトンハンマーで、1960年の中国隊員が同じ物を肩に掛けている写真がありました。


そんな写真を見つけてくる根性、探究心に頭が下がる。アマチュアとは言え山岳史家の「真実を知りたい」ってモチベーションは凄いものですね。


( ̄∀ ̄)v- 面白いのは、他にも地質学的な事が分かるコト。1960年の中国隊のキャンプの位置は遠征記録として残ってますが、1999年に発見された場所は1kmくらいズレていた。東ロンブク氷河のこの部分は39年で約1km、1年で25m、1日で0.7cmの割合で動いているそうです。



ほとんど人間コンピュータ(エヴェレスト特化版)のヘムレブさんが実際に行って見て調査したのはここまで。あとはさらに高みに登ったクライミング・チームとの無線のやりとりで、灰色の脳細胞のフル稼働が続きます。



写真の3枚目以降は、しだいに「こんな所にテントが……」になっていく第5キャンプ(7800m)から第6キャンプ(8200m)付近。いみじくもヒマラヤ8000m峰全14座無酸素登頂の帝王ラインホルト・メスナーが、「死の匂いがする」とのたまったデス・ゾーンに到達しました。