“大いなる雪の五宝の西、南の鳥の国、岩谷内寺院の最寄り、白いガラスの砦の管区内”


( ̄∀ ̄)v- 五宝とはチベット仏教のラマ僧がかぶる宝冠で、密教(金剛乗仏教)の宇宙観を構成する五仏が描かれてます。


中心は大日如来。西に阿弥陀如来。東に阿シュク如来。南に宝生如来。北に不空成就如来。この宝冠(五智宝冠)はハチマキのように頭に巻くものですが、ちょうど山脈のように見える。1921年から英国人に立ち入りを許した当時のダライ・ラマは、エヴェレスト方面をとても美しい言葉で呼んでいますね。


1924年の英国隊は4月29日にベースキャンプを設営しますが、その登山活動は「出だしからつまづき、先へ行くにつれてますますひどくなっていった」そう。


何よりも天候が悪かった。体調を崩して隊から離れたブルース将軍に代わって隊長になったノートン大佐は、春先というのに急激な寒波の中で、全員がやっとベースキャンプを設営したと日記に書いてます。


ヾ( ̄○ ̄;) 皆で全部のテントを建て終えると、私は自分の仕事に取りかかった。新型の酸素器具6台と、旧型4台を使えるようにしなければ。

(; ̄∀ ̄)ゞ 風が氷点下をだいぶ下回っているので、食事用のテントの中では、ハンダ付けに使うプリムス・ストーブが大喜びされた。で、夜遅くまでずっと、ビーサムのかなり旧式なカメラを修理した。


↑とは最年少の22歳で、ずっと何かを修理したり改良していたアーヴィンの日記。彼は英国を発つ前から酸素器具メーカーに設計の変更案を送ったりしていましたが、用意されたのは「触れば壊れるし漏れる。滑稽なまでに不格好で、重い」代物でした。


ヾ( ̄○ ̄;) ……カルカッタに着くまでに90本のうち15本が空になってたし、24本は酸素が漏れまくり。いやはや!!


国を挙げての遠征でなかなか香ばしい事態なんですが、そこは英国が他の西欧諸国より、酸素器具をあんまり重視してなかったことの表れかもしれない。


( ̄○ ̄) 1922年の第二次遠征で酸素を使ったフィンチが最高度まで登ったにもかかわらず、それを使うことには「スポーツマンらしくない」という、いかにも英国人らしい偏見が根強かった。


そう語るのは著者のヘムレブさん@ドイツ人。彼は「用意した酸素ボンベはことごとく修理が必要だったが、皮肉なことに、酸素の助けを借りようと本気で望む隊員など、ほとんどいなかった」とも書いています。


暇さえあれば酸素ボンベを直していたアーヴィンでさえ、ノートン隊長に「マロリーと2人で酸素を使って1回目の頂上アタックに向かえ」と言われた時の気持ちはこうでした。↓


(; ̄∀ ̄) ……最初の組でマロリーと一緒なのはひどく嬉しかったが、これが酸素なしのアタックだったらなぁ。


そしてブルース将軍のリタイアはノートン大佐を隊長に繰り上げただけでなく、登攀隊長がノートン大佐からマロリーに移行する。1921年の第一次遠征にすべて参加したのはマロリーだけですが、最初はヒラ隊員でした。


( ̄○ ̄) 登攀隊長にノートンが任命されていたのには理由がある。マロリーは登山家としては際立った能力を持っていたが、管理能力はゼロだった。


-v( ̄ー ̄;) 登山靴とか、「何で?」な物をしょっちゅう置き忘れるので有名だった。天才型で、隊の管理や統括は無理だったと言われてます。


でもマロリーはあんまり他人をとやかく言わない人で、繰り上げで登攀隊長に任命された事にも素直に感激して、奥さんに喜びの手紙を送っている。ノートンへの信頼も厚く、2人は登攀計画(タクティクス)を練り上げます。


「まずは第1~3キャンプを設営して食糧や備品を蓄える。第3キャンプからノース・コル(7060m)までのルートを確認し、さらに第4キャンプを設営して物資を備蓄する」


「続いてジェフリー・ブルースとノエル・オデールが、高度7650mの第5キャンプまで15名のポーター隊に付き添って登り、そこだけでなくもっと高所のキャンプのために食糧や備品を置いてくる」


「その後でサマーヴィルと私(ノートン)が第4キャンプを出発して第5キャンプで1泊。第7キャンプ(8400m)でもう1泊する」


「私たちが第7キャンプまで登る間に、マロリーとアーヴィンが第4キャンプから第6キャンプ(8080m)まで登り、そこで1泊する。5月17日に各組合同の頂上アタックをする前に、これだけの事は先に済ませておかねばならない」


ノートン隊長→( ̄○ ̄)/ 非常に詰まった日程であることは、お分かりいただけよう!!


-v( ̄○ ̄;) まさかこんな所で名ナレーション「お分かりいただけただろうか」を聞くなんて。しかも「いただけよう!!」……


マロリーとアーヴィンが消息を絶ったのが6月8日なのを思い出すと、1924年の英国隊の登山活動は予定よりずいぶん長引いている。


-v( ̄○ ̄;) そして予定がキツキツ。この当時はまだ「高きに登り、低きで眠る」という、今では当たり前になってる高所順応の手順が確立されていなかった?………


著者のヘムレブさんはこの登山計画を、「ノートンとマロリーが苦労して作り上げたものだけに素晴らしい計画だった」と書き、その後にこう続けています。


( ̄ー ̄) ……唯一の弱点は、未踏の北東稜で遭遇する困難と、天候の変化を計算に入れていないことだった。


( ̄ー ̄) つまり、初めから非運が定められていたのだ。


もうひとつ、本気ではないでしょうが、「あとまずかったのはロンブク寺院の最高位のラマ僧が瞑想に入っていたため、遠征を祝福してもらえなかった事だ」とも。


代わりに他のラマ僧たちが、こんな不吉な言葉で英国隊を見送ったそう。


「チョモランマ、厳かにして力強き母なる女神は、白人がその聖なる高みに登ることを許されまい。雪の魔神が汝らを打ち負かすであろう」



これは予言であったのか、なんかラマ僧たちの機嫌でも損ねたものか。確かに遠征隊はエヴェレストで「雪の魔神」に翻弄されました。