1999年の調査遠征隊が東ロンブク氷河上のベースキャンプに到達したところで、時間軸を1924年の英国隊に飛ばしてみます。


( ̄ー ̄)v- 1枚目はジョージ・マロリーことジョージ・ハーバート・リー・マロリーとルース夫人。本書『そして謎は残った』の表紙にも使われている一番有名なマロリーの写真は、もともとは奥さんと一緒に写っていたものなんすね。


マロリーは1886年6月18日生まれで、父親は牧師。パブリックスクール時代に登山に目覚めますが、進学したケンブリッジ大学ではボート選手として名を馳せていたのだそう。
(後にエヴェレストで最後を共にしたアンドリュー・アーヴィンもそうだった)


大学卒業後は教師になっていましたが、豊富な登山経験とすぐれた登攀スキルを買われてエヴェレスト遠征に加わる。マロリーの「登り方」は彼独自のもので、基本を踏まえた上で「彼にしか出来ないもの」でした。


( ̄○ ̄) 彼は急斜面の岩場で踏み出した片足にグッと肩を近づけ、次の瞬間には上体を起こして前進している。その素早く滑らかな動きは蛇の如しだ。


マロリーの登攀を見た人々はそんなふうに書き残しており、登山家として天性の勘を持つ、華のあるクライマーだったのは間違いないようです。


彼は若く気鋭の登山家として1921、1922、そして1924年のエヴェレスト遠征隊に招聘される。英国の「ウチが最初にエヴェレストに登ったる!」は、1913年に王立地理学協会の会長に就任したフランシス・ヤングハズバンド卿の公約で、卿は「私の在任中にエヴェレスト遠征を実現させるために全精力を注ぐ」と公言していました。


( ̄ー ̄)v- 南極点と北極点の到達で遅れをとった英国が見出した「第三の極地」がエヴェレストだった。王立地理学協会はエヴェレスト委員会という組織を立ち上げ、まずは地図を作ったり、登れるルートを模索します。


1921年の第一次遠征隊は初めてエヴェレスト山麓のロンブク氷河周辺を偵察し、チベット側では今はもっともメジャーになっている「東ロンブク氷河から北壁を経由するノーマルルート」の目安をつけました。


1922年の第二次遠征では、マロリーは無酸素で標高8225mまで登っています。これは時間切れで登頂には至らずそこで引き返しましたが、交代して酸素を使って登ったアタック隊員が標高8321mで撤退するまでは「生身の人間が達した最も高い場所」になりました。


ただ、この遠征では決して少なくない犠牲者が出ており、いったん引き返したマロリーが再度頂上アタックに出た際に雪崩が起こって7人のシェルパが亡くなりました。


この事故は本来ならもう全員が撤退するべき(第二次アタック隊が引き返した後、新雪が積もった)所だったのに、本国からのプレッシャーに押される形で第三次アタックをやってしまったのが原因だったよう。登ろうとしたのはマロリーとサマーヴェル隊員で、現場にいた彼らは「目の前の雪の状態さえ観察できないのか!」と手厳しい批判を受けました。


( ̄ー ̄)v- 2枚目は1922年の第二次遠征隊の撤退の様子。今の目から見れば粗末な装備で、基本的に酸素ボンベは使っていなかった。使って8321mまで達したのはオーストラリア人のジョージ・フィンチという隊員でしたが、英国人ではない為、王立地理学協会員になったのも勲章をもらったのもずいぶん後だった。


( ̄ー ̄)v- トム・ホルツェルの『エヴェレスト初登頂の謎』にはこの辺りの王立地理学協会vs遠征隊員のゴタゴタも詳しく書かれてますが、何故こうも水面下で罵り合うか英国山岳界。書簡の応酬が英国紳士すぎて回りくどすぎ。


「……いま戻って来つつある連中はとかく悪口を言いたがる-----去年はハワード・ベリーが、今年はマロリーが槍玉に上がった。彼らはみな去年帰ってきた連中同様に不機嫌で神経質になっており、慎重な扱いが必要だと思う。”


( ̄ー ̄)v- これが後にマロリーとアーヴィンの遭難を知り、1924年の第三次遠征隊長に「でも偉業だから祝意を」って電報を打った偉いさんのお言葉@1922年版。本国から登れ登れと急かしといて、コレは無いわー。


7人もの犠牲を出した第二次遠征には、当然マロリーも深く落ち込みました。彼は批判には抗弁しておらず、しばしば指摘されていた自分の短所(目的に頭から突っ込むと些事を忘れやすい)に思う所があったのかもしれない。


( ̄ー ̄)v- 遠征隊長からの評価からして「しょっちゅう靴を置き忘れる」。非常に愛すべき人物とも書かれていますが、そのドジっ子さが、最後の第三次遠征で致命的なダメージに繋がったかもしれない……


第二次遠征後の彼は米国での講演活動や著述業を経て再び教師に戻っていましたが、1924年にみたびエヴェレスト遠征隊に招聘されます。


( ̄ー ̄;) …………………………。


既に38歳。当時の感覚では登山家としてはトウが立っており、体力の衰えを意識していました。


それに長期の遠征で、また家族に不自由や寂しい思いをさせるのも気が引けた。愛妻の他には2人の娘と息子がひとり。まだ父親が不在では可哀想な年頃で……


( ̄○ ̄;) しかし…………


自分の父親に宛てて、彼は手紙にこう書きます。


( ̄○ ̄;) 他の人たちが、私ぬきで頂上の征服にとりかかるのを見たら、あまりいい気持ちがしないだろう。


それは招聘に応じた後、こんなふうに変化していきます。


“どれほど今年に期待しているか、とても言いあらわせない。”


長い船旅とチベット高原を横切るキャラバンを経て、そびえ立つエヴェレストに三度(みたび)あいまみえた時には、こんなふうに。


“もう一度、そしてこれが最後-----そういう覚悟で、私たちはロンブク氷河を上へ上へ前進していく。待っているのは勝利か、それとも決定的敗北か。”



3枚目は1924年の第三次遠征隊。1922年の第二次遠征で酸素ボンベを使ってマロリーよりも高く登り、マロリーが酸素の重要性を意識するきっかけになったジョージ・フィンチは参加していません。


4枚目は酸素ボンベを改良中のアンドリュー・カミン・アーヴィン。本から撮った写真では分かりづらいですが、作業中にふいにカメラを向けられ笑顔になったところのようでした。