写真は1999年の調査・捜索隊の頂上アタックメンバーを、はるか下のベースキャンプから望遠カメラで撮ったもの。


2人の登頂アタッカーは標高8690mのサードステップの上にいる。昔はセカンドステップまでの分類しかありませんでしたが、山岳史家のオードリー・ソーケルドがその著書の中で初めてサードステップという名称を用い、以後定着した。そしてソーケルドは「マロリーとアーヴィンが最後に目撃されたのはそこだったのではないか」と考察していました。


( ̄ー ̄)v- だとしたら、「ファーストステップは越えられなかったろう」という従来の推測は間違っていた事になる。彼らがサードステップで目撃されたなら、登頂した可能性は高くなる……


本書の巻末に添えられた「解明済み・未解明の謎」はあと2つですが、だんだん謎の質が濃ゆくなる。まず1つは、著者ヨッヘン・ヘムレブが捜索遠征に出かける直前の1999年4月にアラスカ山岳安全センターの人から受け取ったメールの内容でした。


( ゜д ゜) 今から20年前、コロラドで雪崩に関する国際会議が開かれた際、議長のマーティネリが中国人の雪崩学者から「何かの遺品」が入った茶色の紙袋をプレゼントされたよ。

( ゜д ゜) 中身は靴の片方と、布の切れ端と、小さな皮革ケース。それはエヴェレスト北壁の岩棚で見つかったものらしい。

( ̄□ ̄;) はぁ!?


メールを見たヘムレブ氏は驚愕し、後に実際にマロリーの遺体を見つけた時、右足の靴と左足の靴の一部を確認したことから、それはマロリーの靴ではないと結論を出しました。


( ̄○ ̄;) 誰の靴だ? モーリス・ウィルソンか?


「狂信的な単独行者」モーリス・ウィルソンも有り得ない。彼の遺体を初めて見つけたのは1935年の英国隊(エリック・シプトンの登頂偵察隊)ですが、その時に遺体はもう靴を履いていなかった。そして中国隊がエヴェレストに登るようになったのは、もっと後の時代でした。


ヘムレブの隊の調整役が後にその「茶色の紙袋」について追跡調査し、現物がどうなったかは突き止められませんでしたが、フランスの医師から「その話は知ってる」という手がかりを得ます。


( ゜д ゜) その遺品の持ち主はバトゥーラ山脈遠征隊隊長のドクター・キース・ウォーバートンだよ。彼は1959年に雪崩に巻き込まれて亡くなった。

( ゜д ゜) 1975年と1978年に氷河から彼の遺品が出てきている。それについてコロラドの国際会議で、中国代表が写真と文書を出して説明していた。私は出席してたからよく覚えてる。

( ゜д ゜) 発表の最中に、中国代表がいきなり紙袋から出したから驚いた。登山靴の片方と、腕時計と他にもいくつか……「遭難死者が身につけていたものか!」とね。


ダイレクトやな中国人。そして議長にプレゼントして帰るとは何とも剛毅。


実際に国際会議で中国代表が提出した書類には写真つきで「茶色の紙袋」に入っていたものが目録化されていましたが、でも、それが見つかったバトゥーラ山脈はカラコルム(パキスタン)にあり、ヒマラヤではない。どこでどうなって「エヴェレスト北壁の岩棚から見つかった」になったのか?……


( ̄○ ̄;) ……発見時期は1974年に、王洪宝がエヴェレストの8100m地点で「英国人の死体」を見つけた時と一致する………


肝心の王洪宝は1979年の日中合同遠征で雪崩に巻き込まれて亡くなった。だが、彼からその話を聞いた1975年の中国隊の誰かが遺品を持ち帰った可能性はあるかもしれない。


( ̄ー ̄)v- 後に発見されたマロリーの遺体の様子は、王洪宝が見つけた遺体とは違っていた。マロリーはうつ伏せでしたが、王洪宝が見た遺体は仰向けで「頬に鳥につつかれた痕があった」。


マロリーではなく、アーヴィンの遺体だったという可能性は?……しかし王洪宝の見た遺体はそれ以後発見されておらず、ヘムレブ氏は「もっと詳しい情報が見つかれば」と、これを未解明のカテゴリーに入れています。


あと1つの謎は「謎のテント」。これも著者ヘムレブがシアトル在住の研究家から得た情報で、1960年の中国隊に加わっていたシェルパのインタビューの写しでした。


( ゜д ゜) イエローバンドを越えた先の標高8500m地点で、私たちは一張りのテントを見つけた。

( ゜д ゜) それは8300m地点にあったもう一張りの古いテントより、ずっと上にあった。中には衣類が数点しかなかった。


そのシェルパは2つの古いテントを見ましたが、8300m地点の方は1933年の英国のマロリー・アーヴィン捜索隊の第6キャンプ跡ですが、それより高い場所にあったテントがどの遠征隊のものか分かりません。


( ̄○ ̄;) ……1960年の中国隊より以前に8500mより高く登ったのは、1933年の英国隊だけだ。その最高度のキャンプ跡が、8300m地点に残るテントなのは常識になっている。


証言したシェルパの勘違いとは考えにくい。彼はちゃんと2つのテントを見分けていて、高い場所にあったテントは「イエローバンドを越えた先にあった」と明言している。


( ̄○ ̄;) ……マロリーとアーヴィンが予備のテントを担いで頂上アタックに向かったという資料はない。1960年までにどこの隊が北東稜に入ったんだ?


考えられるのは1952年に初登頂を狙ったが、多大な犠牲を出して敗退したという噂がある旧ソ連隊。現在もロシアの登山界は「そんな遠征隊はなかった」と主張していますが、ある所にはあるもので、1952年の遠征記録は存在するそうです。


“8200mの第8キャンプから、隊長は無線で指示を発した。-----好天が続くようなので、体調良好なアタック隊には、2日以内の登頂が期待されている。”


( ̄ー ̄;) 悪天候でもなければ、「2日以内の登頂」は、登頂アタック隊がもう1つのキャンプを設ける事を視野に入れている。それが8500m地点の“以後誰も見ていないキャンプ跡”なんじゃ……


既に8500m地点は1960年と1975年の中国隊もキャンプを設けているし、最近もいろんな遠征隊のテント地になっている。一番納得のいく説明は、ロシアが公式に認めていない1952年の旧ソ連隊が残したものでしょうが……


( ̄ー ̄)v- その遠征記録なるものも、遠征時期が正確ではない可能性があるそうで。噂ではプレモンスーン期(初夏)ですが、記録ではポストモンスーン期の終わりがけの晩秋から初冬になっている。これは作為的なものだろうか?


中国も北東稜の登山史をすべて公にしていない。ヘムレブ氏は「初期の中国の遠征隊が、一般に知られている以上にエヴェレストの謎を解明していた可能性がある」と考えています。