写真はマロリーが履いていた登山靴。厚底の革靴で、靴の裏には鋲(びょう)が打たれていて「鋲靴」というものだそう。


( ̄ー ̄)v- 靴底に取り付ける金属製のアイゼンは既に1800年代から使われていたそうですが、発明された当時はあまり重要視されておらず、登山が盛んだった西欧で一番使いたがらなかったのが英国だったとか。(山岳界が保守的だった)


ずいぶん後に遺体が見つかった登山家はマロリーだけではないですが、見つけた人は「こんな粗末な装備で登っていたのか」と愕然とするのだそう。“靴”に関してはこれまた謎のエピソードがありました。


( ̄ー ̄)v- まずは前フリで、1980年の2月14日に『エヴェレスト初登頂の謎』の著者トム・ホルツェルが受け取ったビッグニュース。彼はその日に、日本山岳会からの手紙を受け取ります。


( ゜д ゜) 日本山岳会?


ホルツェル氏はすっかり忘れていました。半年前に日本山岳会がチベット側からエヴェレストに登る許可を得たと知り、手紙である事をお願いしたことを……


かつてはネパールが鎖国状態だったので北(チベット側)からしかエヴェレストに登れなかったけど、その後 事情は逆になっていた。1951年に中国がチベットを占領し、以後30年間 外国人はそちらからは登れなかった。


それが日本山岳会に登山許可が出たと知り、ホルツェル氏は「アーヴィンの遺体がスノー・テラス(標高8100m付近)にあるかもしれない」と手紙を書き、遺留品のカメラにも留意してほしいと依頼していました。


( ̄ー ̄)v- 北面からの登山許可が下りたという噂で行動速ぇ。なぜアーヴィンの遺体と伝えたかは、ホルツェル氏は「アーヴィンが先に滑落死して、マロリーは登頂してから亡くなった」と考えていたからでした。


それから半年間 日本山岳会からの返事はなく、手紙を出したホルツェル氏もすっかり忘れていた。けれども流石に律儀だ日本人。ちゃんと返事をくれました。


“拝啓

マロリーとアーヴィンの謎に関する御論文およびサゼッションとアドバイスのお手紙を有り難うございました。
貴下のサゼッションは我々だけでなく、我々の遠征を後援する読売新聞社の関心を呼び覚ましました。同紙は1月1日号で全面を使って貴殿のことを報じています。”


(;・_・)v- 論文も送りつけたのね。でも、日本山岳会はちゃんと生かしてくれました。


日本山岳会からの手紙には1979年に中国と合同で行われた遠征の様子が詳しく書かれており、10月12日に隊がノース・コルに到達しようとしていた時に雪崩が発生し、中国人隊員3名が流されてクレバスに落ちて亡くなったとのことでした。


“……その中にノース・コルに3度登り、高度8000mまで達した王洪宝氏がいました。彼はこの前日、日本人隊員の1人に、かつて1974年の遠征隊に加わった際、2つの死体を発見したと話していました。”


-v( ̄□ ̄;) エッ!?


話を聞いたのは日中合同遠征隊の登攀隊長だった長谷川良典氏で、亡くなった王洪宝氏は「東ロンブク氷河の第3キャンプの近くで1体、そして北東稜ルート上の標高8100m地点でもう1体を見た」と語ったそう。


“王洪宝氏は英語は話せず、ただ長谷川氏に向かって「イングリッシュ(英国人)」と繰り返すのみでした。最初の1体はウィルソンかもしれません。8100m付近の死体は誰でしょうか?”


-v( ̄ー ̄;) ……今でこそエヴェレストのデス・ゾーン(8000m以上)が遭難死者の屍累々なのは有名ですが、淡々と凄い手紙だわ。


王氏が8100m付近の死体の衣服に触れると、それは粉々になって吹き飛ばされたそう。彼はその死体を雪で覆い、埋葬したと話したそうです。


“長谷川は彼に「それはロシア人じゃなかったのか?」と尋ねましたが、彼は「ロシア人はこんなに高くまで登っていない」と答えました。”


( ̄ー ̄)v- ロシア人云々は、1952年に旧ソ連の遠征隊がネパール側からエヴェレストの初登頂を狙い、多数の犠牲を出して敗退したという噂があったため。やらかしてた模様です、おそロシア。


そして中国もまた1975年に北面で1人の死者を出し、長い間それを公にしていませんでした。王洪宝氏はその遠征にも加わっており、本来なら明かしてはならない秘密を長谷川氏に語ったようでした。


( ̄ー ̄)v- あと、そこまで何度も見つかってるなら誰か埋葬してあげてと言いたくなる「ロンブク氷河の死体」。これは「ヨークシャーの狂人」と呼ばれたモーリス・ウィルソンという英国人で、1934年にチベット側から登った人。


( ̄ー ̄)v- 陸軍の軍人さんだったけど、独学で飛行機の操縦を学んで「エヴェレストの中腹まで飛行機で行って、あとは歩いて登る」をやろうとした人。登山家ではなく、登山家からの評価はとても冷ややかです。


でも「飛行機で乗りつけたらお得じゃないの」は、上空を通過する事になるネパール政府にバレて「ふざけんな帰れ」となり、それでもめげずにラマ僧に変装。陸路でチベットに潜入して北東稜からの登頂を目指しますが、「今度はうまくいきそうな気がする」と日記に書き残して遭難。後に2回遺体が発見されており、そのうち1回の発見者はエリック・シプトン。世界一有名な“雪男の足跡の写真”を撮った英国人登山家でした。


人間としては愛すべき冒険野郎だったと思いますが、本書『そして謎は残った』を書いたヨッヘン・ヘムレブ氏も「ウィルソンの遺品は、今もロンブク氷河で時々見つかる」と素っ気ない。ゆっくりと移動する氷河にひとり流されて来てるようで、何だか切ない。



エヴェレスト北東稜の公式な初登頂は、1960年の中国隊。その辺りの登山史の中にも、「英国人の遺体」やその遺留品のミステリーがありました。