回り回りて広がりゆく渦輪

鷹は鷹匠を聞くことあたわず。

物みな四散す。中心は保ちえず。

全きアナーキーが世界に解き放たれ、

血に曇る潮が解き放たれ、至るところ

無垢の祭典の溺れゆく。


( ̄ー ̄)v- ウィリアム・バトラー・イエーツの『再来』。


これはジョン・クラカワー氏が著書『空へ』で、1996年5月のエヴェレスト大量遭難のさなかを振り返る章に掲げた詩ですが、1924年6月にマロリーとアーヴィンの遭難が確定となった直後の関係者の混乱にも当てはまるかも。


“OBTERRASロンドン(イングランド) マロリー アーヴィン NOVE その他 ALCEDO ノートン ロンブーク”

2人を捜索しに登った他の隊員たちは手がかりを掴めず、ノース・コル(北の鞍状の台地:標高7060m)に毛布を十字架の形に並べる。それを見た遠征隊長のノートン大佐は暗号化された電報を打ち、6月19日に英国にマロリーとアーヴィンの遭難(遠征の失敗)が伝わります。


( ̄ー ̄)v- 南極点と北極点到達で他国に敗北していた英国にとって、エヴェレスト制覇の失敗は「にわかに漏らしてはいけない事」だったんすね。


電報を見た英国王立地理学協会のヒンクス氏(エヴェレスト登山委員会の会長秘書)は、遠征隊にこんな返信を送ります。


“委員会は本日公表された全隊員の英雄的功績に心からの祝意を表し、なかんずく完璧な指導力を高く評価する。”


( ̄□ ̄;) はあ!?


この電文は「2人の部下を失った遠征隊長に祝意とは何だ」と受け取られかねないもので、エヴェレスト遠征を「一つの見世物と扱い、その悲運への然るべき認識を欠いている」と解釈されても仕方ありませんでした。


だが6月20日から大々的に報じられた遭難への英国国民の反響は大きく、ヒンクス氏は改めてノートン隊長に2通目の電文を送ります。


“我々は、国王、世界各地の数多くの地理学協会と山岳界、およびこの国の大勢の個人からの弔文と弔電に圧倒された。新聞はマロリーとアーヴィンの栄えある思い出に敬意を表さんと競い合っている。”


( ̄ー ̄)v- 修正入りました。


国家的プロジェクトではあったけど、多くの人間が関わる以上温度差はあり、初期報道から遭難の解明、後の世の総括まで「物みな四散す 中心は保ちえず」が続く。オデールが最後にマロリーとアーヴィンを見たのは何処だったかというのは後の問題で、それより先に問題になったのは酸素のことでした。


( ̄ー ̄)v- 1920年代のエヴェレスト登山では「酸素ボンベなんて使わなアカンか?」って感覚があったんすね。今は常識だけど、当時は疑問視されていた。


遠征隊長のノートン大佐は、遠征のどんな内容が非難を受けやすいかをよく分かっていました。まずは「3度目の挑戦となるマロリーの状況判断は正しかったのか」、次に「遠征登山は初めてのアーヴィンを何故頂上アタック隊員に選んだのか」、そして「酸素を使わなかったから遭難したのか。使ったから遭難したのか」………


( ̄ー ̄)v- 当時の酸素ボンベは今のものよりずっと重たく、マロリー自身もあまり使いたがらなかった。スポーツマン精神からか「使うのは邪道」みたいな風潮もあったんすね。


地理学協会のヒンクス氏も酸素ボンベ懐疑派で、「器具の欠陥の問題は調査委員会の主題にする」と言ってきた。ノートン隊長はそれに対して、「マロリーとアーヴィンにいかなる非難も被らせまい」と決意します。


( ̄ー ̄)v- 酸素ボンベに関してはオデールとアーヴィンが装備担当で、2人は入念にボンベを管理し改良していた。酸素の問題で彼らの「手落ち」が非難される恐れもあった……


マロリーとアーヴィンはおそらく最後の頂上アタックで酸素ボンベを使っていました。ファーストステップ付近に空の酸素ボンベが落ちていたし、本数から考えて2人か或いはどちらか1人があと3時間分のボンベを持っていった筈。


( ̄ー ̄)v- 他の問題についてはオデールの最後の目撃談-----「2人が登っていたのはファーストステップかセカンドステップか」に集約される。目撃した時間と位置で、多くのことが推測できるからです。


しかし、2人を最後に見たのはオデールだけだった。彼は最初セカンドステップを登るマロリーとアーヴィンを目撃したと言い、予定時間より遅れていた事から「登頂後に疲労と寒さで死亡した」と考えますが、ノートン隊長を含め他の隊員はみな「滑落した」と考えていました。


( ̄○ ̄) マロリーが疲労に屈服するはずがない。それに夜の間、SOSを伝える懐中電灯のまたたきも見えていなかった。


マロリーは1922年の遠征で明かりを持って行かずに苦労した。だから同じ過ちをするはずがないとノートン隊長は考えましたが、それは第6キャンプに残っていました。(マロリーにちょっとドジっ子な部分があるのは有名だった)


衰弱死か滑落死か。


“多くの人が信じるように2人が転落したのであれば、最初に滑ったのは経験の浅いアーヴィンだったという想定は避けられない。”


( ̄ー ̄)v- 確かに今もその見方は根強いですが、何かマロリー贔屓が強い気がする。


対してオデールには「滑落死などあり得ない」という思いが強かった。頂上アタックのサポート隊員として一番高い場所にいた彼には、最後に見た2人は「力強く登っていく」ように見えていた。滑落じゃない。するわけがない。ただ時間切れだったんだ……


けれども滑落死の方が遺体や持ち物が見つからない理由として妥当だし、酸素ボンベの問題や、何より2人の(多分にマロリーの)過失を云々せずに済む。一瞬のアクシデントだった。誰も悪くない……


結果オデールは隊からも孤立する。もし最後に見た2人がセカンドステップにいたのなら、登頂できた可能性は高い。でも時間が合わない。マロリーは最終の第6キャンプにオデール宛てのメモを残していたが、「朝8時にはイエローバンドを横切っているかスカイライン(その先に1~3ステップがある)を登っている」と書いていた。目撃したのは昼の1時近く。遅すぎる………


( ̄ー ̄)v- 後にファーストステップを登るのではなく、迂回するルートが発見される。登攀したのは中国隊・日本隊・カタロニア隊で、えらいこと遠回りかつ危険だそうです。


マロリーとアーヴィンはそのルート-----1980年代にやっと登攀可能と証明されたルートを通ったのか?


オデールは1933年の捜索隊員から「セカンドステップはとてもじゃないが登れない」と言われ、そもそも最後の2人を見たというのは幻覚じゃないのかとも言われました。


(; ̄○ ̄) ……ファーストステップだったかもしれない。


オデールは押し切られるようにして「最後の記憶」を訂正しますが、やはりセカンドステップだったと再び最初と同じ証言に戻る。それはしばしば、「彼にはそう<創作>するしかなかったのだ」と評されます。


彼は1936年の捜索隊に志願しますが参加できず、代わりにガルワール・ヒマラヤのナンダ・デヴィ(7816m) に初登頂する。そこは1950年まで、「登頂された世界最高峰」であり続けました。


写真は上からマロリー、アーヴィン、オデール。そして1985年にファーストステップを迂回してセカンドステップを登攀するカタロニア隊。



人は何を守るために物事を見るのか。その守るものは何だったのか。
マロリーとアーヴィンの遭難からそれを考察し、マロリーの「山がそこにあるからだ」にさえ疑問の目を向けつつなお、「それは彼の墓碑名であり続けるだろう」と結ばれていたのが本書でした。