1924年のマロリーとアーヴィンの遭難の経緯は、分かりやすいまとめをなうに添付。甘い仕事をいたします。

(※もう埋もれた:検索すればWikipediaなどに詳しく乗っています)


( ̄ー ̄)v- これにも諸説ありますが、定説はそれですな。


まず山好きの方には説明もいらない前置きなんですが、エヴェレストには主に2つの登山ルートがあり。1枚目が北東稜で、チベット側から登る場合に見たエヴェレスト。2枚目が南東稜で、ネパール側から登る場合のエヴェレストです。


( ̄ー ̄)v- エヴェレスト登山史は、それが始まった1920代はネパールが鎖国状態だったんで、チベット側からしか挑戦できなかった。しかし1950年代には鎖国が終わり、より登りやすい南東稜からの挑戦が可能になりました。


だから1953年のエドマンド・ヒラリー卿とテンジン・ノルゲイ・シェルパによる初登頂は南東稜からで、以後もっとも登られる「ノーマルルート」になっている。1996年の大量遭難事故もこちら側で、エヴェレストと言えば大抵はこの南東稜の写真が使われます。


( ̄ー ̄)v- 1920年に英国が国費をつぎ込み、マロリーとアーヴィンが遭難したのは北東稜。ちょっと見映えがしないと言うか、頂上から左に伸びる稜線が長いすね。


しかし遠景の写真ではこの長い稜線こそがクライマー殺し。頂上はファイナル・ピラミッドと呼ばれますが、そこに至る稜線上にはファーストからサードまでのステップ(段差)があります。


最難所のファーストステップは標高8500m地点で、垂直に切り立つ高さ30mの岩壁。セカンドステップは8580m地点、サードステップは8690m地点の足元が不安定な岩場。


( ̄ー ̄)v- 大昔に海底が隆起してできたエヴェレストの山頂にはいくつかの年代ごとの地層があり、標高8200~8600m付近のイエローバンドと呼ばれる地層の帯は高さの目安。頂上直下にあって見映えもよい。写真ではだいたいその左上の稜線に1~3のステップがあります。


( ̄∀ ̄)v- あと、イエローバンドには三葉虫やウミユリの化石があり。世界で一番高いところにある地層で、地質学者さんも気合いを入れる場所です。


南東稜にも命賭けの難所はありますが、この北東稜の方が岩壁登攀スキルを必要とするので難度が高い。1920年代に3度遠征隊を派遣した英国は2回目で標高8300m台まで到達しますが、最後の難関の1~3ステップ越えには至りませんでした。


エヴェレストは南東稜では頂上アタックまでに設けられるキャンプの数がだいたい南東稜では4つ。(ベースキャンプを含めて5つ) 北東稜では6から7つ。1924年の英国の第3次遠征の大詰めで、単身で標高7710mの第5キャンプに留まっていたノエル・オデール隊員は、6月8日の午後1時頃、標高8000mを少し超えた地点で上を見上げます。


( ̄○ ̄;) あっ……


地質学者でもあるオデールは、頂上に向かったマロリーとアーヴィンをサポートする為に次の第6キャンプまで上がる途中だった。そこで初めて化石を見つけて喜んでいた彼は、それまで雲に覆われていた頂上が姿を現したのに気付きます。


( ̄∀ ̄;) ………。


その時に、頂上直下を黒い点が動いているのが見えた。最初はひとつでしたが、見ているうちに後ろからもうひとつの点が後を追い、合流した。マロリーとアーヴィンが順調に頂上を目指しているのだと、オデールは安堵しました。


しかしすぐに再び雲がかかり、2つの点は見えなくなった。これがマロリーとアーヴィンが最後に目撃された姿となりました。


ヒマラヤ8000m峰全無酸素登頂者の生き神ラインホルト・メスナーもこの謎に関する本を書いている。表紙に写っているのはエヴェレスト北東稜の最上部であり、マロリーとアーヴィンが戻らないと分かった時に探しに上った隊員たちが、「遭難死」のしるしに毛布を十字架の形に並べて立ち去った時の写真です。


“オデールが最後に2人を目撃した時、彼らはどこにいたのか?”


これが長い論争の種となる。オデールは長い間セカンドステップの辺りだったと証言していましたが、後にファーストステップに訂正。そして晩年には再び、セカンドステップだったと証言しています。


( ̄ー ̄)v- なぜそこが重視されたのかは、当時の技術ではセカンドステップまで行くのは困難だったから。生き神メスナーも「ファーストステップは越えられなかった筈だ」と考えています。


1933年の英国による捜索隊は、ファーストステップ近辺でアーヴィンのアイス・アックスと、どちらが使っていたのか分からない空の酸素ボンベを見つけている。これでとりあえずファーストステップまでは到達していた事は分かりましたが、その先の事は分からない。


4枚目の写真はオデールが撮ったもので、6月6日の朝に第4キャンプを出発するマロリーとアーヴィン。そして1933年に発見されたアーヴィンのアイス・アックス。5枚目は2人のどちらかが持っていた、コダック製のポケットカメラと同型のものです。



このカメラが見つかれば、もっと色々なことが分かる。1999年にマロリーの遺体は発見されましたが、それでも「セカンドステップより上に到達していたか否か」は、未だに推測しかできないままです。