おお、これは良い秋の空。


( ̄∀ ̄)v- そろそろ川行脚もシメに入るかと、気合いを入れて回ってきました。


まずは中津川市加子母の「かしも大杉地蔵尊」。乙女渓谷の入り口の手前にあり、その名の通り大きな杉の木が目印の地蔵堂です。


ご本尊は大願王延命地蔵大菩薩。聖武天皇に厚遇され奈良の東大寺の造営に尽力した高僧・行基の作と言われ、昔は滋賀県の瀬田大寺にあったそう。


それが巡り巡って各地をさまよい、安元二年(1176年)にこの旧加子母村の小郷という地に落ち着く。さらに後年、源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃に諸国を巡っていた文覚上人がこの地蔵堂に泊まり、お告げを受けます。


( ̄Å ̄) この西の山に立派な寺を建てよ。


文覚上人は親交のあった源頼朝の助けを借りて、地蔵堂から西にあたる山に、鳳慈尾山大威徳寺という立派なお寺を建てます。しかし何度も戦火に焼かれ、天正十三年(1585年)の飛騨の大地震で全壊し、無くなってしまいました。


( ̄ー ̄)v- あれかな帰雲城がまるごと埋まってしまったという地震。


地蔵尊のお告げを受けて大威徳寺を創建した文覚上人は京都に戻っていましたが、源頼朝が亡くなると佐渡に流されたり、また帰京を許されたりした挙げ句、高齢のためこの地で亡くなります。


しかし長い間 埋葬地が不明でしたが、享和元年(1801年)に地蔵尊の背中に「この近くの白ツツジの下」と刻まれていたのが判明。そこを掘ると、骨壺と独鈷が出てきました。


( ̄ー ̄)v- それでこの地蔵堂の境内に改葬され、立派な石塔が建てられたとか。


文覚上人はもとは遠藤盛遠という北面の武士で、同僚の妻の袈裟御前に横恋慕。言い寄られた袈裟御前は困り果て、「夫を殺して下されば」と言って夫のふりをして寝所で斬られて亡くなります。


過ちを悔いて出家し高僧になった文覚上人の墓石には、凶行の日(旧暦の7月9日)にたくさんのナメクジが這い上がる。そのナメクジは背面に黒い斑(まだら)があり、刀で斬られた袈裟御前が彼の罪を許して現れる姿だそう。


( ̄ー ̄)v- 夜明けにはいなくなるとか。ちょっと一晩中見てみたいすね。その日は九万九千日と呼ばれ、悟りを開いて許された文覚上人と同じくらいの功徳を積める日なんだそう。


3枚目が文覚上人の墓石で、刀傷のあるナメクジが這い上がるとされる石。墓碑銘はもうずいぶん風化していて、判読は困難です。


ご本尊の地蔵菩薩は延命長寿・安産守護・交通安全・家内安全をお守りくださるそうで、私も絵馬に家内安全を祈願してお納めしました。



目印の大杉は推定樹齢千数百年。はるか昔、天平・鎌倉時代から立ち続ける大樹です。