午後4時15分。登頂隊を除くすべてのメンバーが、雪洞から約50m離れた場所に集まった。
一番後にやって来た今野は、隊員たちが輪になって立っている場所から少し離れた雪の上にうずくまっている佐久間に怪訝そうに目を向けた。佐久間はそれに気づいて顔を上げ、見下ろす今野に向かって低くくぐもった声で呟いた。

「俺が見つけました。-----気づかずに、ピッケルのシャフト(刃とは逆方向についている鋭利な先端)で刺しちまった……」

今野が改めて見直すまでもなく、佐久間の顔色は真っ青だった。ただでさえ気温は零下40度を下回っていたが、それでもなお全身が凍りつくような気がした。
誰かが人の輪から無言で身を退き、今野に場所を譲った。入れ替わりにそこに立った今野が真っ先に思い浮かべたのは、「ピッケルもアイス・アックスも持ってない……」という一言だった。雪と氷の稜線歩きや氷壁登攀には不可欠なそれらの道具も持たず、坂下は身ひとつで凍った雪の上に横たわっていた。それを見下ろす今野の脳裏に、「滑落」の二文字が点滅した。

「……手袋の片方と、それからアイゼンも片方なくなってる」

遺体の脇に屈み込んでいた延原が、乾いた声で誰にともなく呟いた。

「滑落した時に飛ばされたんだな。-----登る途中だったのか、下りる途中だったかは分からん。でもきっと物凄い風が吹いてたんだろう。こんなに遠くまで……」

隊員たちは顔を上げ、はるか彼方で半ば雪煙に覆い隠されている氷壁を見つめた。死因は調べるまでもない。-----少なくとも数100mは滑落して飛ばされたのではないかと思われる根拠は、何よりもその遺体だった。仲間から「別嬪さん」とからかわれ続けた坂下の端正な容貌は、ほとんど原形をとどめていなかった。

「手間かけさせやがって」

死後に変色したと思われる片手の甲にちょっと触れ、延原はこの遠征に出て初めて穏やかな口調で呼びかけた。

「……こんなの絶対、お前らしくないじゃないか。……なあお前、一体全体どうしちまったんだよ?……」


坂下の遺体は寝袋に納められて橇(そり)に乗せられ、それに結びつけたザイルを隊員たちがかわるがわる引いてベースキャンプまで降ろされた。延原は自分と佐久間だけを残して他のメンバーを遺体と共にタルキートナに帰らせ、登頂隊の帰りを待った。そして3月30日に無事に下山してきた登頂隊員と合流し、ようやく捜索隊の撤収が完了した。

延原がタルキートナの宿に戻ると、それを待っていた捜索隊長の大塚が坂下の検死記録を差し出した。
死因はやはり滑落の際に負ったと思われる頚骨骨折と頭蓋骨陥没骨折で、他にも肋骨や脊椎骨、右上腕や左大腿にも著しい骨折が認められた。-----剥き出しになっていた左手や顔面は滑落前から既に凍傷に冒されていたと思われ、死亡推定日は2月23日(日本日付では24日)と記されていた。そしてそれが、坂下直海の35年と10日の人生を終わらせた死の顛末だった。

それから3日後の4月4日。およそ1ヶ月に及んだ捜索・収容活動はすべて終了し、隊員たちは荼毘に附された遺体と共にタルキートナを後にした。
アンカレッジに向かうバスの中には、それまで頑として先に帰国しようとせずに付き添いの箕輪を手こずらせた沢野の姿があった。沢野は衰弱した身体は既に回復していたが極度に塞ぎ込み、感情をまったく表に出さないようになっていた。

そんな沢野がバスの中から、背後に遠ざかるマッキンリーをいつまでも凝視しているのを見かねた箕輪は、その肩に手をかけて呼びかけた。

「……もう終わったんだ、何も考えるなよ」

だが、沢野の視線は動かなかった。それ以上かける言葉もなく手を下ろした箕輪は、そこで思いがけなく、久しぶりに沢野の声を聞いた。

「……雪煙が上がってない」

「えっ?」

箕輪はちょっと驚き、座席の背もたれに肘をかけ、沢野にならってはるか後方にそびえるマッキンリーに目をやった。-----空は抜けるように青く、そこに向かって屹立するピークは純白の雪に覆われ眩しいほどだった。その威厳に満ちた美しさを見つめた箕輪は、ただぼんやりと「そうだな」と頷いた。

「あんな山じゃなかった」

再び、沢野が呟いた。

「俺がいた時はあんなふうじゃなかった。もっと険しくて、荒れてて、恐ろしかった。あんなふうにきれいで穏やかじゃなかったんだ。俺がいたのは、あんな山じゃない……」

胸を衝かれ、箕輪は沢野の顔をじっと見つめた。その目は潤み、唇が小刻みに震えていたが、やはりかける言葉は見つからなかった。

空港に着くまでの間、彼らの乗ったバスは何台もの同じようなバスとすれ違った。それらはみな世界各国からやって来た登山隊で、こちらが遭難捜索隊とは知らない異国のクライマー達は人なつこく無邪気な親しみを込めて笑顔で手を振ったり、開けた窓から身を乗り出して「次は俺たちの番だぞ!」と高らかに宣言して通り過ぎていった。-----これから先、マッキンリーは春の登山シーズンを迎え、訪れる遠征隊の数はひと月に10隊を超えるほどになる。


厳冬期のマッキンリーは終わったのだ。


(署名記事/根来史彰)