沢野がついに「悪天候によるものではない危険」を感じたのはこの日の夜半だった。成人男性の空腹を満たすにはあまりにも頼りない夕食が済んだ後、沢野は傍らに置いてあったカップに何気なく手を伸ばした。

それはインスタントの野菜スープが入っていたカップで、底はまだ乾いていなかった。それをペーパータオルで拭おうと取り上げた時、数滴のしずくが太腿のあたりにこぼれ落ちた。その瞬間に、向かい側でうずくまっていたギュンターが突然動いた。

「あの時ナイフを持っていたら、確実に刺していた」

その瞬間のおぞましさを、沢野は後にそう語る。ギュンターは目に常軌を逸した光を浮かべて猛然と沢野に突進し、防寒服に染み込んだスープにむしゃぶりついて吸いついたのだった。
声を上げる事も出来なかった。まるで捕食性の芋虫に取りつかれたような生理的嫌悪感に抗いながら、沢野は助けを求めてシュルツを見たが、彼はただ虚ろな表情でこちらを眺めているだけだった。

この時、沢野の中で何かが壊れた。もう沢山だ、もう限界だという声にならない叫びが頭に溢れた。彼は2人に気づかれないように袖の内側にナイフを隠し持ち、残りの食糧のすべてを彼らの前で点検した。そして正確に3等分した上で、怯えを悟らせまいと低く押し殺した声でこう告げた。

「これで食糧は終わりだ。まだ何日停滞が続くか分からないが、これからは各々で自分の食い分を管理しろ。誰かが先に食べ尽くしても、もう誰も助けない。それを肝に銘じるんだ」

翌3日は、風の勢いがやや弱まった。……だが、ベースキャンプから見える頂上は依然として雪煙に取り巻かれている。
4日は殆ど風が止み、快晴。しかしこの日も飛行機はやって来ず、スキーで下ったオーストリア人がどうなったかも分からぬままだった。

疲労と失意のあまり誰も口をきかず、それぞれの食糧も底を尽きかけ、オレンジの皮やパン屑を口にする。……あり余っているのは空腹と失望と疑心暗鬼のみ。理性とか正気とかいうものがあとどれくらい残っているか、それすらもう定かではなかった。

沢野はこの時完全に、「今ここで俺が死んだら、絶対にこの2人に喰われてしまう」という強迫観念に取り憑かれていた。そのため片時もナイフを手放せず、ほんの束の間の居眠りさえ出来なくなっていた。節約に節約を重ねてきた燃料も残り少なく、それが尽きた時に訪れる闇を沢野は恐れた。その時が自分の正気が尽きる時、死よりも恐ろしい事態が起きる時だと感じていた。