沢野は迷ったが、下山の望みを失いかけ見るも痛々しい彼らに見て見ぬふりもできず、彼らの申し出を受け入れた。
それに自分1人でいるよりは、3人でいた方が心強いようにも思われた。シュルツは35歳、ギュンターは28歳。どちらも身長176cmの沢野よりも頭ひとつ分大きい。そんな彼らが力なくうなだれているのを見かね、沢野は自分用に取っておいた焼きそばを作ってやった。5500mの高所で坂下のホットジュースに救われたオーストリア人は、今度は沢野のこしらえたインスタント麺を旨そうに平らげた。

3月2日。この日から天候は急激に悪化した。朝から激しい風と雪がテントを叩き、すぐ外に用足しに行くのもままならなくなった。テントは激しく左右にうねり、長期の停滞を覚悟した3人は残りわずかな食パンと粉末スープを分け合ってその日をしのいだ。

焦りは限界に達しつつあった。-----自分たちよりたった2日先行しただけのオーストリア隊も、停滞を繰り返しながら2月25日にはこのランディング・ポイントまで戻って来ている。単身で身軽な坂下の足が彼らに劣るとは思えない。たとえ5500m地点で登頂を断念したとしても、視界さえきけば一気に下りて来られる筈だった。天候が比較的安定していた25日、26日に行動していればとうに帰って来ていてもよい筈なのに、未だに交信さえ出来ないのは何故なのか?-----そんな筈がない、ある筈がない。沢野はともすれば悪い方へ悪い方へと傾いていく気持ちを押さえ、嫌な予感を振り払おうとした。

その頃には、若いギュンターの様子がすっかりおかしくなっていた。初めのうちは陽気で口数も多かったのに、今では1日中寝袋にもぐり込み、自分からはまったく動こうとしない。何か行動を起こすのは用便と、食糧を分配する時だけだった。それも最初のうちは、

「申し訳ないが、チョコレートを少し分けてくれないか」

などと控えめに頼んできては受け取ると満面の笑みで感謝の言葉を口にしたものだが、いつの間にかすっかり人が変わってしまい、隙を見ては食糧をかすめ取ろうとさえし始めた。もう1人のシュルツは終始紳士的な態度を崩さなかったが、それでも食事時には異常なまでの熱意をもって自分たちの取り分を要求した。それはまるで、自分こそがこのパーティーの隊長であるかのような威圧的な態度だった。沢野は彼らをテントに入れた事を後悔し始めた。-----このままでは、坂下の帰りを待つまでもなく自分が飢えてしまう。それに坂下が戻って来る前に、手をつけずにいる彼の食糧まで食べ尽くしてしまったら?


初の海外遠征で、沢野はとてつもない問題に直面した。ストレートに生きるか死ぬかという問題である。食糧を出し渋り始めた沢野にオーストリア人たちは反発し、あからさまに罵声を浴びせる場面もあった。沢野の神経はささくれ立ち、「こんな思いをするなら自分がキャンプを放棄した方がましだ」と何度も思った。だが、未だに音沙汰のない坂下を放ってそんな真似はできない。その頃には自分ももはやオーストリア人たちと変わらぬ醜い顔をしていた筈だと、沢野は後に振り返る。