顔面粉砕ではなく、片目に岩の切っ先がめり込みます。


( ̄□ ̄;) 俺はウサギだ、お前の兄だ! ウサギなんだぞ!!


しかし蘇った弟は、何も思い出せないまま再び絶命。肩で荒い息をつく男はしばらくそこに立ち尽くし、再び布袋から干し首を取り出します。


( ̄ー ̄;) ……………………。


それにかじりつき、口に含んだドロドロを弟の死体の口に流し込む。まだやるのか。弟が全ての罪を思い出して蘇るまで、また同じ儀式を繰り返すつもりなのか………


“俺はウサギだ”


( ̄ー ̄)v- ……たぶん儀式に没入するうちに、彼にはそれも分からなくなっていく。外界を遮断して儀式に集中するのは復讐の為ですが、蘇った相手が自分が誰だか分からないって状態は、儀式による憔悴にとどめを刺す。


儀式の最中でさえ、それを続けること自体で自分は削られる。報われる保証がないまま延々と手順に従ううちに、彼は昼間でも死神や亡き妻子を見るようになっていた。それは全て「俺はウサギだ」に集約されますが、儀式の性質上、彼ひとりのモチベーションに支えられる。


( ̄ー ̄)v- とても辛いだろう。ひとりで葛藤と戦って続けなければならないのだから。


しかし憎い相手には記憶がなく、まっさらな魂で「な、ナニ?」って顔で自分を見る。これまでの労苦を無駄にされたような気がするし、最も大切なことが自分でもあやふやになるだろう。


( ̄ー ̄)v- 自分は誰か? という認識が揺らぐ……


干し首のドロドロをまた弟に飲ませた“ウサギ”は顔を上げ、眼前に広がる岩山や湖に向かって咆哮します。その叫びを聞く者は誰もなく、「ここが既に賽の河原なんじゃ」って荒野を渡る風と混じり合い、遠くこだまします。


“冬のさなかに吹く風は 鬼をしたがえ蛇(じゃ)を泳がせ”

“あても涯てしもない夜を ただ肉を噛み 肉を食(は)み”


( ̄ー ̄)v- 故・赤江瀑『野ざらし百鬼行』。藤真利子の歌の歌詞になっててびっくりしました。


日本には仏教説話の類に、高僧の前で途方に暮れる鬼のお話があるんすね。「私は憎い相手をとり殺し、子々孫々も余さずとり殺してきましたが、血縁を全てとり殺しても恨みが消えず困っております」みたいな感じで。


( ̄ー ̄)v- 日本では鬼になるというのはそういう事でもあった。由緒正しき御霊(菅原道真:雷公クラス) になれない市井の人の恨みの念は、行きつく先なく彷徨うモノだった。


この作品の寂寥感、ラストに満ちる哀切もそれに通じるものがある。復讐を果たしたくても出来ない苦しみと、なおも諦めきれない傷ましさが胸に迫る作品でした。


( ̄ー ̄)v- タイトルはイエス・キリストが弟子に言った言葉がネタかも。


ペテロか誰かが「人を許せない場合、何回までは許せばよいですか。例えば7回まででしょうか?」と尋ねた時、キリストは「7回の70倍までは許しなさい」と答えたそうで。


( ̄ー ̄)v- なら491回目からは許さなくていいのか? って意味でなく、何となく、7とか70とかは「もう数えんな」に当たるらしい。つまり「オール許そうよ」って意味だそうです。ジーザス・クライストも割と喩えがアバウトね。


「7回の7倍まで」は、もっと市井レベルの喩えかも。人間がリアルに想像できる範囲内まで値切ったのかもですね。



タイトル画面は旋回しながら皮膚にめり込んでいくドリル。(ドリルは男のロマンです)