鈴木紀夫氏は3回目の雪男捜索の後、1978年に結婚。翌79年に長男、83年に長女を授かり、いったん捜索から遠ざかります。


それまで5回もコーナボン谷に通ったのに、最初に簡単に姿を現してくれた雪男はその後まったく出て来なかった。鈴木氏は東京の表参道に開いていた喫茶店をたたみ、土木会社の正社員として働いていたそうです。


子供が2人できてそれまで住んでいたアパートが手狭になったので、千葉市内の一戸建てをローンで購入。絵に描いたような子煩悩な父親として、妻や子と過ごす幸せな毎日でした。


( ̄○ ̄;) なんとか自分で雪男を見つけたいけど、俺も年だし、自分じゃなくていい。誰か見つけてくれねえかなあ。


それまでの彼からは想像もできないような言葉を、夫人は何度か聞くようになる。彼女は「子供ができて雪男探しがしんどくなったんじゃないでしょうか」と、当時を振り返ります。


親友の国重光熙氏も、鈴木氏にとって雪男捜索は重荷になっているように見えました。彼は鈴木氏から「もう決着をつけたい」と、焦りにも似た思いを打ち明けられていました。


まだ30代半ばでしたが、彼にとってはもう「いい年」だった。昔いっしょに世界を放浪した仲間も今は会社を興したりしてそれなりの社会的地位を築いている。それに比べて自分は所帯持ちにも関わらず、未だ腰が定まらず、雪男発見に未練を残している。角幡氏は「晩年の鈴木氏に悲壮感が滲んでいたのは、そんな理由があったからかも」と感じます。


鈴木氏は雪男に、あるいは自分の人生に決着をつけるため、最後にもう一度コーナボン谷に戻ると決めます。会社を辞め、費用は国重光熙氏の仲介でTBSが一部を捻出してくれた。またソニーから1000mmの望遠レンズを取り付けられる試作段階の8mmビデオも借りられた。さらに家族が生活に困らないように、ある程度の生活資金も確保できました。


( ̄○ ̄) ……それまでは出発する時は嬉しそうだったけど、様子が違った。


空港に見送りに行った国重氏は、末っ子を抱き上げる鈴木氏が涙ぐんでいたのを覚えていました。鈴木氏は出発の数日前に手相を見るのが好きな友人を訪ねて、「俺、今回はやばいと思うんだ」と呟く。そして出発の1週間前に会った弟さんは、「とにかく暗くて会話がはずまなかった」と語ります。


(; ̄○ ̄) 何か言いたそうだったけど、結局訊けなかった。ただ、心配はそれほどなかったんです。2回目の時にあれほど雪崩に遭ってるから、当然、雪が降ったら逃げると思ってた。


(; ̄○ ̄) 後から考えると、よっぽどの覚悟があったのかなと思います。


小林誠子氏の『ラストシーン』には、鈴木氏が「なぜ雪男は現れてくれない?」というもどかしさや懊悩を募らせていた事が書かれています。それは二度と姿を見せない雪男に、「こんなに頑張ってるのにひどいじゃないか」と苛立っていたようにも見える。あの惨憺たる写真やフィルムから受けた落胆は、もう一度その姿を捉えなければ拭えないのに……


鈴木氏が日本を発ったのは1986年9月29日。そして11月13日にコーナボン谷で書いた手紙が1ヶ月後に夫人に届く。その日が後に、彼の命日になりました。


鈴木氏は手紙の冒頭で奥さんや子供たちを慈しみ、ベースキャンプ入りした翌日に雪男の足跡を見つけたと書き送っています。


“あれから8年(1978年の捜索には夫人も同行した)、思い通りに京子ちゃんを幸せな生活にさせてあげられませんでしたがとにかく雪男、子供の時からの夢だったこいつをやりとげんことには死ぬにも死ねないんです。どうか私の心中も察して下さい。ーーー”


察するも何も、夫人は心配しながら「夫の夢を叶えさせてやりたい」と支えていました。鈴木氏は世界中を放浪していた時も心身の限界が来るとお母さんに弱音を吐いては支えられていましたが、それはしっかり者の姉さん女房の夫人に対しても同じだったよう。彼は夫人が非難がましいことは言わないと分かっていたし、夫人がどんな思いで読むか分かっていてそう書いたように感じました。


この手紙を最後に連絡は途絶える。翌年1月になっても音信不通なのに不安を覚えた夫人が国重光熙氏に相談し、国重氏は友人の登山家・深田良一氏を通じて山田昇・斎藤安平氏に捜索を依頼します。


3月に第1次捜索、9月に第2次捜索がコーナボン谷に入り、斎藤安平氏がシェルパやキルティ、サマラル(2008年に角幡氏らのキャンプに来て「スズキの遺体を見つけた」と話した人々)と共に変わり果てた遺体を発見する。斎藤氏は夫人に遺髪を手渡し、彼女は宿でそれを洗ってやりながら涙を流します。やっと帰って来た、これから一緒に家に帰れる……


日本の遺族の元には、深田良一氏から国重光熙氏を通じて連絡が入る。鈴木氏の実家に電話をかけた国重氏は、鈴木氏のお母さんが「お祭りがあるから、今日はみんな来てますよ」と言うのを聞きます。


( ̄○ ̄;) ……また、お祭りか………


鈴木氏が雪男のフィルム上映会に身内や友達を招いたのも同じ秋祭りの日だった。国重氏ははなやぐ町と、落胆した鈴木氏の姿を思い出します。


鈴木氏のお母さんは秋祭りで親戚が集まるので、ご馳走の準備で忙しかった。お赤飯の色付けのために小豆を茹でた汁を庭で何度もかき混ぜていた時に、国重氏からの電話がかかって来たそうです。


「遺体が見つかった」という知らせはお母さんにとっては思いもよらないもので、既に二十歳前後から世界中を歩き回ってきた息子だから、どこかで生きているんじゃないか。当時は入国が難しかったチベットに行きたいと言ってたから、人知れず潜入してるんじゃないかと考えていました。


( ̄○ ̄) ……はい。分かりました。



お母さんはそう一言呟いて、実家に来ていた鈴木氏の弟さんに受話器を渡す。そしてお祭りのために玄関脇に立てていた提灯の火を消し、片付けます。鈴木氏の雪男捜索は祭りに始まり、祭りに終わりました。


写真は遺体発見現場で、下はグルジャヒマール南東稜。思えば何人もの日本人が雪男らしき生き物やその足跡を見て、ある者は頓着せず、またある者は人生を賭けた場所でした。