鈴木紀夫氏は1949年千葉県生まれで、1968年に法政大学の二部(夜間部)に入学しますが、それは昼間に海外放浪の資金を貯めるために働くつもりだったからだそう。


当時の世相は、米国ではキング牧師が暗殺され、日本では三億円事件が発生し、学生運動が盛んな頃。法政大学はある見方からは「学費が安いから低所得層の子弟が多く、階級闘争に染まりやすい」なんてひでぇ言われようですが、未だ「現役」が存在する老舗のひとつ。鈴木氏も活動には少し関わったそうですが、「議論の内容が現実とは乖離してる」と感じ、深入りはしなかったそうです。


( ̄ー ̄)v- 連合赤軍のあさま山荘事件に至るまでの「総括」をエロ漫画で名高い山本直樹氏が漫画化してますが、エロを捨てて徹底的に下調べした《理詰めの世界》に背筋が冷えます。新興宗教の信者が互いに心理的に追いつめられる怖さを描いた『ビリーバーズ』でも、そちらの力量は証明済み。


当時の学生運動は関わった大半の若者にとっては「若気の至り」で、最初から背を向けたり、途中からセクト内の上下関係や他セクトとの対立などに「結局は社会の縮図じゃないか」と離脱した人も多かった。そうした若者の中には息苦しい日本から脱出し、今で言うバックパッカーになる人もいました。


( ̄ー ̄)v- 鈴木氏は大学に入った翌年には横浜港から日本を飛び出し、両親には手紙で事後報告という離れ技でまずはバンコク、インド、イランを経由してユーラシア大陸をほとんどヒッチハイクで横断。さらに北欧から東欧を回り、イスラエルのヒッピー村に長期滞在。当時はヒッピー文化全盛期で、世界中から若者が放浪の旅に出ていました。


横浜港を出港した時の所持金はわずか76ドル。それでもヒッチハイクや短期就労、果ては売血までして移動する資金を得ていた詳細は小林誠子氏の『ラストシーン 夢を追いかけ散っていった冒険者たちの物語』に書かれていますが、国境を無断で越えようとして拘置所に放り込まれるなどかなり無茶もしていました。


そこまでなら若者の親泣かせの自分探しの旅でしたが、いったん帰国して思い立った「小野田少尉発見の旅」が鈴木氏を世に冒険家と知らしめる。1974年にそれまで日本政府も成し得なかった小野田氏帰還を成し遂げた鈴木氏は、一躍マスコミの寵児となります。


角幡氏が出発前に本格的に鈴木紀夫氏について調べようと思ったのは、高橋隊長から「1975年のダウラギリⅣ峰遠征の途中で、ポカラの安宿で鈴木氏に会った」と聞いたからでした。


( ̄○ ̄;) コーナボン? なんでそんな所へ?


( ̄∀ ̄) ……………。


これからコーナボン谷へベースキャンプを作りに行く高橋隊長は、登山家でもない鈴木氏がそこから帰ってきたと聞いて驚いた。けれども鈴木氏は愛想笑いだけで理由は答えなかった。そして1987年に鈴木氏の訃報に触れた時、初めて「コーナボン谷に6回も雪男探しに行っていた」と知って愕然とした……


( ̄○ ̄;) 6回も行ってたんだ。あんな辺境に……


確かに尋常な回数ではない。鈴木氏の著書『大放浪』には、雪男探しの回数までは書かれていなかった。私も小林誠子氏の『ラストシーン』を借りてきて初めて知りましたが、早くも小野田氏を連れ帰った翌年の1975年から、76年、77年、78年、80年とほぼ毎年雪男探しにヒマラヤに出かけ、最後の1986年の捜索で遭難していました。

※死亡確定日は1986年12月18日。遺体発見は翌年の9月28日。


( ̄○ ̄;) どうして鈴木氏は、ポカラで高橋隊長に会った時に「雪男を探しに来た」と言わなかったんだろう?


会ったのは1975年。鈴木氏の最初の雪男捜索の時で、彼はこれから日本に帰るところだった。角幡氏は当時の新聞や雑誌の記事を集めますが、小野田少尉がらみの記事ばかり。それでも唯一、雑誌『平凡パンチ』が独占取材と銘打って、1979年に鈴木氏にインタビューしていました。


( ̄∀ ̄)/ 雪男についても、自分である確信を持つようになった。今までだと運が悪いと諦めるような事があったけど、これからは絶対違う。運・不運はあまり関係なく、雪男を見つける自信が湧いてきたよ。


ヾ( ゜∀ ゜) 具体的には?


( ̄∀ ̄) 人に先を越されると、今までの苦労がパーになる。オレ、現実には何回も足跡を見ているし、テントの中にいる時も気配を感じたこともある。出る場所もほぼ絞られてきたし……


ヾ( ゜∀ ゜) ネパールのどの辺り?


( ̄∀ ̄) さあ、言えないねェ。


このやりとりを見て、角幡氏は「ああ、そういう事だったのか」と溜息をつく。後に鈴木氏の遺稿を読ませてもらう機会があった時、鈴木氏はポカラで高橋隊長に会った時のことをこう書いていました。


(; ̄○ ̄) 《ヒマラヤン・ソサエティ》に着いてみると日本人が18人も泊まっていて空き部屋がない。彼らは日本ダウラギリⅣカモシカ同人会のメンバーで、これから登りに行くと言う。


(; ̄○ ̄) ポーターの総勢は160名、まったく焦ってしまう。大変な事になった。こんなに大勢で行ったら雪男が逃げてしまう。心配事がまたひとつ増えた………


そういう事だったのだ。鈴木氏はこの時の捜索で5頭もの雪男を目撃していたが、このインタビューまでにもう4年も経っているのに、そこでさえ雪男目撃の詳細を語っていなかった。彼は誰かに先を越されたくなくて、雪男についての取材を受ける事すら避けていたのだと角幡氏は悟ります。


( ̄ー ̄)v- 北米のビッグフッターにも、「2番目に褒美は出ない」という共通の認識がある。著名な探索者たちは表面上は親しく言葉を交わすが、情報の共有や共同探索はめったにしない……


傍観者としてビッグフッターを観察した『ビッグフットの謎』の著書ロバート・マイケル・パイル氏は、そこからヒト同士の断絶や不寛容に思いを馳せる。ヒトの「故意に分かち合わない性質」は、ヒトを緩やかな滅びに導くものではないかと考察しています。


( ̄ー ̄)v- この人も偶然に足跡を見つけている。一番強いのは「無欲」かもですなぁ。



そしてヒマラヤに発つ直前の2008年7月中旬、角幡氏は静岡県に住む鈴木氏の未亡人に会いに行きます。