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もともとはグロテスクな人体変容が特色だったのですが、ある時点から“精神の変容”が主題になってきた監督さんの作品です。


デイヴィッド・クローネンバーグ
『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』


原作はパトリック・マグラアという作家の同名の小説。映画の脚本も手がけています。


精神病院に入院していたデニス・クレッグという男性が、一時退院してロンドンの中間施設にやって来ます。


そこはぱっと見は普通のアパートですが、デニスのように退院して、社会復帰のために自活を学ぶ施設のようです。


物語はロンドン駅に降り立つデニスの姿から始まりますが、彼は長いコートの下にシャツを何枚も重ね着し、何か不明瞭な呟きを漏らしつつ、道端に落ちているゴミを丁寧に拾い集めながら歩きます。


普通でないのは一目で分かりますが、“異常者”の印象ではなく、ひどく痛々しく途方に暮れている感じです。


(TーT)v- 辿り着けるのか? 大丈夫か? という感じ。


彼は何とか目指すアパートに辿り着き、舎監のような立場のウィルキンソン夫人に迎えられ、与えられた部屋に通される。


彼はなかなか部屋でくつろげず、コートも脱がない。その代わりに、持ってきたトランクから取り出した小さなノートを、大切に大切に部屋の絨毯の下に隠します。


どうやら、デニスはもともとロンドンの、このアパートの近くで生まれ育った様子です。


彼は他の住民との野外作業などの合間をぬって、見覚えのある場所を歩き回ります。


そのひとつ、町外れの小さな菜園に彼は倒れ伏し、畑の土にすがり、母を呼んで泣き崩れる。


「ここに母さんがいる……優しい母さん……」


そして、彼はノートを片手に、少年時代の記憶を少しずつ取り戻しては記録していきます。


彼は小さな少年の頃の自分を見つけ、窓の外や物陰、室内のドアの陰などから、少年時代の生活を垣間見ます。


そこには清楚で優しい母と、何故だか母とは不仲な様子の父親や、父親が通うパブの客たちがいます。


パブの客の中にはひときわ下卑た感じの娼婦たちもおり、幼いデニス少年は彼女たちからからかわれる。


物陰から見ている大人のデニスの姿は周囲からは見えず、透明人間のよう。
しかし、娼婦に乳出しされてからかわれる幼い自分を見る大人のデニスは、ひどく動揺して嫌悪感を表します。


家では、美しい母が彼を相手に“蜘蛛の話”を語ります。


「母グモはきれいな巣を張って、卵を納める小さな袋を編むの」


「すべてを終えたら、母グモは振り返る事もなく立ち去るわ。糸を吐き尽くして、もう中身は空っぽ……」


母は父親との関係や今の暮らしに行き詰まり、それを悲しんでいる様子です。


そして父親もまた乾いた生活に疲れており、パブで出会った娼婦イヴォンヌと関係を結びます。


「尻軽のイヴォンヌ……」


父親が彼女との不倫に走った事を思い出し、デニスは必死にノートに記録を取り続けます。


ある晩、パブに出かけた父親を追っていった母は、菜園の小屋でイヴォンヌと密会している父親を見つけ、いきなりスコップで殴られて死んでしまう。


父親とイヴォンヌは共謀して母を菜園に埋め、イヴォンヌはそのまま後妻に収まる。


幼いデニス(母からは“スパイダー”と呼ばれていた)はその展開を受け入れられず、イヴォンヌがぬけぬけと


「確かにお母さんを殺したけれど、今は私がお母さんよ」


と言うのに憤り、父親を「人殺し」と言って罵ります。


大人になったデニスはそれを思い出し、さらには過去の世界ではないはずなのに、アパートの部屋に現れる娼婦イヴォンヌを見てしまう。


どこからが現実なのか?


デニスは怯え、また、娼婦イヴォンヌの容貌がアパートの舎監のウィルキンソン夫人に酷似している事にも動揺します。


ウィルキンソン夫人は、父親と共に優しい母を殺害したイヴォンヌなのか?


現実と記憶の世界の境界がただでさえ曖昧なデニスは、深い混乱に落ちていきます。


デニスは幼い自分が家の中に蜘蛛のように細いヒモを張り巡らせ、遠隔操作で台所のガス栓を開けるように細工している姿を見ます。


夜更けに酔っ払ってパブから帰ってきた父親とイヴォンヌが眠りこけるのを確認した小さなデニスは、自分の部屋からガス栓を開く………


充満したガスに気付いた父親が先にデニスを家の外に出し、続いて、既に息絶えている“妻”を運び出す。


「 お前は…… 」


震える声で呟く父親。


「お前は、自分の母親を殺した……」


路上に横たわるのはイヴォンヌではなく、優しく美しい母だった………


-v( ̄□ ̄;) 何故………。


やられた、と思った瞬間でした。


「人間の記憶ほど曖昧なものはない」


特典映像のインタビューでクローネンバーグ監督自身が語ったように、“父親の不倫”から既に、大人のデニスが「思い出した記憶」は真実ではありませんでした。


幼い記憶に、「不仲な割にはお盛んね」という場面がチラリと出ていましたが、これがきっと、真実でした。


パブで娼婦にからかわれた嫌な記憶(生々しい性への嫌悪感)は、母であり女である母親の、女の部分から目をそむけるためにこそ使われた。


父親とイヴォンヌが本当に不倫関係だったのかは分からず、彼らが母を殺害し、イヴォンヌが継母になったという記憶さえ、デニスが都合よく作り上げたものかもしれない。


イヴォンヌは単に、幼いデニスが嫌悪した“性”の象徴だったのかもしれない。


デニスがなぜ精神病院にいたのかは語られませんが、おそらくは母親殺害のためなのでは。


ただ、それは無意識の記憶の書き換え(もしくは混同)で、全ての記憶を見終えたデニスは殺害しようとしたウィルキンソン夫人を殺せず、再び病院に送還されます。


ウィルキンソン夫人を殺せなかったのは、今や全てを理解したからでした。



とても痛々しい映画です。


デニス(スパイダー)を異常者と見る事はたやすい。
けれども、そう見る自分は本当に“正常”なのか?


人間は記憶(経験)によって生きるものですが、その記憶は本当に正しいものなのか。また、本当に正しい記憶などというものは存在するのか?


思い違いや楽観的解釈、記憶の書き換えでかえって良い人生を送っていることも、良くない人生を送っていることもあるのでは。



『戦慄の絆』や『Mバタフライ』で背筋が凍るような“精神の変容”を見たのがクローネンバーグ監督作品ですが、これはそれらと同様に“痛ましい映画”でした。



( ̄ー ̄)v- 次はスッキリ、目に見えるグロでいきます………