私はかなりエグいスラッシャー映画は平気で観られますが、
「これは無理だ」
と、腰がひけてしまう作品もあります。
『鮮血の美学』
監督がウェス・クレイヴン(スクリーム)、
製作がショーン・S・カニンガム(13金)
という有名どころの初期作品なんですが、ダイジェストをちらりと見ただけで降参しました。
コンサート帰りの2人の少女が、森の中でならず者たちに乱暴された末に惨殺される。
ならず者たちはその後に1軒の家に立ち寄りますが、そこは殺された少女の家だった。
娘がどんな目に遭ったかを知った両親は、怒りに燃えてさらに凄惨な復讐に出る……
あらすじは前から知っていましたが、わずかな場面を観ただけで、目をそむけたくなりました。
ならず者たちに陵辱され、嘲笑われ、とことんまで侮辱されて殺される少女達の絶望感や、その過程を心から楽しんでいるならず者たちの非人間性が、あまりにもリアルに伝わってくるからです。
もちろん、この作品はマニア向けの虐待映画ではなく、人間性についてのメッセージ性が込められた名作と呼ばれています。
それでも、私にはキツいです。
これは「狂気」とか、「心の闇云々」で繰り広げられる暴虐ではないから……
ホラーは多くのジャンル(オカルトなりスラッシャーなり怪物パニックなり)から成り立つ「ジャンルの集合体」ですが、娯楽作品と呼ぶには抵抗があるものも確かにあります。
実際の殺人場面を見せるというスナッフフィルム(ほぼ都市伝説)と、ホラー映画は全く違います。
スナッフフィルムは『8mm』のように、それを題材にした作品だからこそ楽しめるわけで、もし存在するとしても、観たいとは思わない。
「血糊はよいが、うつつ(現実)の血は野暮だの」
一言で言えばこれ。
うつつの血は、本当に恐ろしいもの、自分の中にある恐ろしいものを強制的に見せつけてくるような気がします。
特殊メイクやCGでは及びもしない怖さを、です。
閑話休題
『隣の家の少女』
原作はジャック・ケッチャム。
食い入るように読んでから、読まなければよかったと思った小説で、映画化もされました。
舞台は1950年代の米国。
静かな田舎町に住む主人公の隣の家に、両親を亡くした姉妹が引き取られてきます。
姉のメグと妹のスーザン。
主人公の少年は綺麗なメグに惹かれますが、姉妹は隣家で壮絶な虐待を受け始めます。
不気味なまでに非人間的な女主人のルース。彼女は自分の息子らも交え、なぜそこまでしなければならないのかという非情さで、とくにメグを虐待します。
どうして延々と虐待描写を書かねばならないのか。
決してマニア向けポルノではないと分かっていても、著者ケッチャムの描写は凄惨すぎました。
やがて主人公もルースの家に拘束され、責め苛まれるメグの姿をまざまざと見せつけられます。
身体的にも性的にも、精神的にも徹底的に破壊され尽くされるメグ。
それを見て主人公は憤りや無力感に苛まれ……
“ここから先は言いたくない。何があっても言いたくない”
ここまでずっと彼の一人称の回顧録だったのに、ただ一度だけ、彼は具体的な記述を拒みます。
何があったか?
何をした………?
映画化された作品については、スティーヴン・キングが「この20年間で最も本質的に恐ろしい、ショッキングなアメリカ映画だ」と述べています。
“本質的に恐ろしい”
この表現は、大半のホラー映画があえて直接は扱わないものがそこにあるという意味だと思います。
イカレた殺人鬼でも
幽霊でも
モンスターでも
宇宙人でも
UMAでもない恐怖。
条件さえ整えば、
自分たちの人間性ほど当てにならないものはない、という恐怖です。