【裏天皇】ついに秘密結社「八咫烏」のメンバーが明らかに!12烏の系図

[竹下雅敏氏]12烏の系図と八咫烏のメンバー ~ これまでの八咫烏研究の集大成



竹下雅敏氏からの情報です。


今回の記事は、これまでの八咫烏に対する研究の集大成です。10月31日の記事では、八咫烏の当時のメンバーを何人か特定しました。今回は、2014年11月1日調べでの八咫烏のメンバーを特定しました。現在は少しメンバーが入れ替わっています。

12烏のメンバーの血筋は、伏見宮家、鷹司家、徳川家、島津家などのごくわずかな一族からなることを示しましたが、今回残りのメンバーを含む系図を作成しました。これをご覧になると、見事に姻戚関係でがっちり固められているのがわかります。

今回の系図と11月20日の記事の系図で、12烏のメンバーのほとんどが出て来ます。今回の系図に書き切れなかった会津松平家に関しては、12月3日の記事の系図の松平容保の七男・松平保男(会津松平家12代当主)、その子・松平保定(13代当主)、その子・松平保久(14代当主)となります。

系図を見て細川護煕(第79代総理大臣)が目に留まります。また、島津忠秀夫人となった近衛昭子はその後整体師野口晴哉氏と駆け落ちして、野口昭子となります。昭子夫人は野口晴哉氏によって闇から救い出された感があります。

(竹下雅敏)

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12烏の系図



PDFデータはこちら
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/wp-content/uploads/2015/12/151206_12garasu-keizu.pdf




八咫烏のメンバー

(2014年11月1日調べ)

・ 裏天皇


前田ゴロウ



・ 三羽烏


新木直人           小串和夫         白井永二


・ 十二烏


広瀬祐也


北白川道久      東久邇信彦      久邇邦昭


鷹司尚武       近衛忠輝        島津修久


千葉 糺        松平保久        德川恒孝
  

前原誠司         西高辻信良        伏見博明


・ 七十烏



川端明彦

参照元 : shanti-phula
[竹下雅敏氏]12烏の系図と八咫烏のメンバー これまでの八咫烏研究の集大成


八咫烏 (結社)


 

八咫烏(やたがらす)とは古代氏族の賀茂氏の一部が日本における神道、陰陽道、宮中祭祀を裏で仕切っているとされる組織。正式名称は八咫烏陰陽道。 飛鳥昭雄、白峰、古歩道ベンジャミン、三神たける、中矢伸一、RAPTなどが存在を主張している。

概要 八咫烏の代表者とされる林裕之によると八咫烏は賀茂氏の祖とされる吉備真備が天平十六年十一月(西暦744年)に藤原氏の朝堂独占に対抗するために 聖武天皇の密勅により丹波国で結成したのが始まりという。

八咫烏は天平時代から幕末にかけて主に迦波羅(かばら)と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀を執り行い、 京都御所における食事や掃除、湯浴みに至るまで天皇や内廷皇族の日常的な事柄を一手に引き受けていたとされる。

その他、天皇の身に危険が及ぶ自体が起こった場合、聖護院に連れて行き自体が収束せずに更に危険が拡大すれば聖護院から あらかじめ決められた極秘の道に従って神社や寺等を点々として、最終的に天皇を奈良吉野に逃がす役割を担っていた。 この間に滞在する神社と寺の主はすべて八咫烏の構成委員またはその血族者で固められていたという。

八咫烏は下鴨神社境内にある糺の森河合神社を仮本宗と位置づけており、 組織内では八咫烏神、賀茂建角身命、秦伊呂具、役小角、 聖武天皇 八咫烏開祖の吉備真備を祭神として奉っている。 また八咫烏は大烏と呼ばれる3人の実質的指導者がいるとされ、三位一体で金鵄という称号で呼ばれ、 俗称で裏天皇ともいわれているとされる。

近代の八咫烏 八咫烏は江戸後期、徳川家定の時代から幕府や朝廷が次第に陰陽道や八咫烏の祭祀儀礼に頼らなくなっていったことから、 八咫烏の影響力は退潮傾向にあった。

幕末に孝明天皇父子が暗殺され、替え玉として長州藩出身の大室寅之祐が明治天皇としてすり替えられて即位したことで、 宮中祭祀と天皇・内廷皇族の葬式の分野を除いて朝廷や皇室における八咫烏の影響力は殆ど失われたとされる。

続く明治時代では八咫烏とは縁が無い薩長土肥出身者が主導する明治政府が神仏判然令や神社合祀令、天社禁止令、修験禁止令等の形で直接間接の弾圧を行ったことで、大日本帝国憲法が公布される頃には解体寸前まで追い込まれるほど衰退の危機に瀕した。

しかしその後も八咫烏は存続し、岡山県総社市上原や高知県香美市で上原大夫やいざなぎ流と呼ばれる陰陽師村を築いたり、 頭山満や内田良平などの人物を代理人として反体制的な政治活動をさせることで勢力拡大を図ったとされる。

戦後の八咫烏


戦後、GHQ占領軍の神道指令や境内地の接収、国家主義団体とみなされた結社の解散などの社会政策や神社本庁創設による神社界の締め付けが原因で八咫烏の財力や影響力は戦前よりもまして大きく削がれ零細化したとされる。

現在八咫烏は天皇・内定皇族の葬儀を担う八瀬童子の大半、皇室の際し実務を担う内定職員の一部、 上賀茂神社、下賀茂神社の非公式神職や民族派団体幹部の一部にメンバーがいたとされる。

特に21世紀になってから八咫烏は存続を図るために、スターシードと呼ばれる独自に「神童」とみなした 青少年を少人数スカウトして神道学を基本として特殊な教育を受けさせており、任意で次世代のメンバーに登用しているとされ、 その中から2011年10月に八咫烏の代表者(但し指導者ではない)に補命された林裕之が「八咫烏の会」で未完成の八咫烏の公式サイトを開設している 。

参照元 : wiki/八咫烏_(結社)